「サーリヤ!」
 アクラムは苦しげにサーリヤの名を呼ぶと、その体をきつく抱きしめた。
「覚えておったのか。覚えておったのか! そなたは、俺のことを……」
「あなただとは思いませんでした。でも、忘れるわけがない……」
「俺とて忘れよう筈もない」
 アクラムはサーリヤの唇を探り当てると、それをむさぼった。何度も吸いたてては、己の舌でかき回す。いつにない性急な愛撫だった。
「……あなたは、とっくに忘れているものとばかり……」
 サーリヤが吐息まじりのかすれた声で囁けば、アクラムが勢いよく首を横に振る。
「何を言う。そなたは俺の聖域だ。幼い頃見つけた、やすらぎの草原だったのだ……ずっと探しておったものを、まさかにこのような足元で見つけるとは思わなんだぞ」
「僕が……あなたの、聖域?」
「そうだ」
 アクラムは頷くと、サーリヤの瞳を覗き込んでその頬を撫ぜた。
「そなたは俺の寝床、夜空に輝く月だ。そなたは、他の者のように愚かしく意味のないことを騒ぎ立てたりはしない。己の欲の為に俺に取り入ったりもせぬ。ただ俺を癒し、傍らで見守っていた……その憂いを帯びた眼差し。名前の通り、夜空を流れる雲の声まで聞こえそうなほど、静けさで満ちたそなたに見つめられると、俺は全てを打ちあけずにはおられなんだ。己自身の知らなんだ醜い思いでさえ、そなたはただ何度も頷いて受け止めた……それがどれほど俺を心なぐさめたことか」
 サーリヤは恥ずかしさに俯いた。
「僕は……いえわたくしは、そのような大それたつもりがあったわけでは……ただ、あなたの話を聞いているのが楽しくて」
「楽しかった?」
 アクラムは不思議そうにサーリヤを見つめた。
「俺はそなたの前で、いつも愚痴をこぼしては当り散らしておったような気がするが……楽しい話などした覚えなどないぞ」
「いいえ……そういうことでは」
 サーリヤは何とか自分の気持ちを説明したいと思ったが、口の不達者な自分にはとても難しかった。それに、サーリヤにとっても、あの気持ちが一体どのようなものだったかなど、はっきりとはわかっていないのだ。
 アクラムはしばらく口篭るサーリヤの言葉を待っていたが、じきに諦めたようだった。
「良い。無理に言葉にすることはない」
「……はい」
 サーリヤはアクラムを見上げた。
 あの頃、自分よりも華奢で何処か危なっかしい雰囲気をまとっていた彼は、凛々しく綺羅をまとった青年に成長して、今目の前に居る。ほんのわずかな時を共に過ごしただけなのに、あんなにも自分の心を捕えた彼が……もう二度と会えまいと絶望していたにも関わらず、こうして側に居て体を触れ合わせている。
 自分と同じように、彼もまたあのひとときを特別なものとして感じていてくれたのだ……その事実が、サーリヤの不安を拭い去っていく。
 恐ろしく感じられた強い視線も、今は快かった。
「ずっと、探しておった。……ようやく見つけたのだ」
「あ、では……侍従長補佐様のところに居られたのは?」
「俺だ。国中の薬師の中で、年頃の男を虱潰しにあたったのだが、よもや王宮に居るとは……ワッハーブの話を聞いて、もしやと思うたのだ。城下町に住んでおったが、14の頃より修行の為諸国を転々としていたと聞いてな」
 サーリヤはその話を聞いて驚いた。
 流行り病で生き残った王子が、腕のいい薬師を探しているとの噂を聞いたことはある。だがその実態が、まさか自分を探していたのだとは夢にも思わなかった。
「は……はい。つい4月程前まで、アレキサンドリアに居りました」
「道理で見つからぬ筈よ。病で兄王子達が次々に斃れ、王位継承権が転がり込むやもしれぬと言われて、俺は身動きが取れなんだ。その間に、そなたは異国へ行ってしまった……」
「申しわけ……ございません」
「それゆえ此度こそは、けしてそなたを見失うまいと誓ったのだ」
 サーリヤは小さく息を飲んだ。
 そんな理由があったから、昨晩はあのような過剰な反応を示したのか。
 それと同時に、心の奥底から何かあたたかなものが沁み出してくるような気がした。この堂々たる男の中に、少年の頃の臆病な心が残っているのだと……そう思うと何やら微笑ましく、また、いとおしい気持ちになる。
 サーリヤはその心のまま、微笑みをたたえてアクラムを見つめた。
 アクラムはそんなサーリヤを見つめ返すと、安堵の溜息を漏らした。
「おお……その笑顔よ。そなたのその静かな笑みをどれほど求めたことか」
 そんなことを言われて、サーリヤは何やら困ってしまった。自分だとて、あの彼の面影をずっと追いかけていたのだ。自分にとってのそれは、見たこともないような高純度の宝石の、まばゆい光ではあったが……。
「ようやく新月が明けたぞ。俺の月が戻ってきた……もう逃しはせぬ」
 そう言ってゆっくりとおりてくる彼の唇を、サーリヤは胸をときめかせて待った。

 ゆるゆると夜の帳が、小さな離れ宮を覆っていく。
 幾万幾億の星が輝く中、王子は胸の中の月を飽きることなく愛でたのであった。