アラブの王国にも、冬が訪れようとしていた。
 とは言え、比較的南に位置するこの都では、冬とて日中は日差しが強く、暑い。
 しかし夜は冷える。
 来るべき夜の冷え込みに応じて、薬草畑に処理をほどこしていたサーリヤは、ふとこの離宮の静けさが乱れたのに気がついて手を止めた。
「……どなたかがいらしたのでしょうか、マハスティ」
 お相手役として、サーリヤが薬草の説明をするのを聞いていたマハスティは、おっとりと首を傾げた。
「こちらにお渡りになる方は、旦那様以外にいらっしゃらないと存じますが」
「でも、まだお昼を過ぎたばかりですよ。早すぎます」
 アクラム・アル・ハイユ王子が彼の「寵姫」であるサーリヤのもとに渡ってくるのは、たいてい陽が暮れる前後の頃と決まっていた。王位継承者である王子には、せねばならぬ仕事が山のようにあるのだ。
 たとえどんな召使にも丁寧に接するサーリヤに、若くして孫がいるというマハスティは微笑んで見せた。
「そのようなこともあるでしょう。たとえ昼日中でも、時間さえ許せば新妻に会いたいと思われるのは、自然なことでございますよ」
「新妻……それって、僕のことでしょうか」
「他にどなたがいらっしゃいます」
「……」
 常に控えめで、自己主張の少ないサーリヤだったが、マハスティのからかいにはきちんと反論する。
「僕は、女性ではありませんし、アクラム様と婚姻を結んだわけでもありません」
「もちろん、離れ宮のお方は男性でいらっしゃるのですから、ご結婚は神がお許しになりませんわね」
「……そうです。神が、お許しになりません」
「わたくしが間違っておりました。奥方ではなく、恋人でいらっしゃいましたね」
「……」
 サーリヤは俯いた。その言葉の響きが照れ臭く、そしてちょっぴり嬉しかったのだ。
 ベールから出たマハスティの目元が優しく笑みを作り、年相応の細かな皺を浮かべた。
 そこへ、この離宮の雑事を取り仕切っているジャミーラがやって来た。
「離れ宮のお方、どうぞ沐浴を」
「……あ、それでは?」
「旦那様がお渡りになられました」
 サーリヤは驚いて目を丸くした。
 まさか本当にいらっしゃったとは。
 立ちすくんでいるサーリヤを、ジャミーラが焦れたように急かす。
「さあ、お急ぎくださいませ。旦那様は今すぐにでも離れ宮のお方を、とおっしゃっておられます」
「では今すぐお出でになればよろしいでしょう」
 マハスティがおっとりとそう言うのに、ジャミーラはとんでもない、と目をきつくする。
「離れ宮のお方は、薬草畑にいらして御手が土で汚れていらっしゃいます」
「あら、そうでしたね。このままでは、お二人とも泥んこになってしまいますね」
 おかしそうに笑うマハスティを、ジャミーラとサーリヤはちょっと呆れて見つめた。
 泥んこというほど、サーリヤは汚れているわけではない。少し指に土がついているくらいなものだ。
「……とにかく、お話をしているいとまはございません。さ、お早く」
「あ、は、はい。今行きます」
 ジャミーラに追い立てられるように、サーリヤは浴室へ急いだのだった。

 生花を浮かべた湯につかって体を清めると、サーリヤは新しい衣服をまとってアクラムの待つ居間へと向かった。
 アクラムは羽毛を詰めた柔らかい小枕(クッション)にもたれて、水煙草を喫んでいたようだった。サーリヤに気がつくと、きつい表情をわずかに緩めて立ち上がる。
 本来ならここで、主人に対する決まった挨拶をせねばならないところだが、アクラム本人がそれを良しとしないので、サーリヤはただ微笑んでアクラムにゆっくりと近付いた。嬉しくて、自然に笑顔になってしまったというのもある。
「アクラム様」
「サーリヤ。随分と待たされたぞ」
「あ……申しわけありません」
「責めておるのではない。ジャミーラは頭が固くて困るが……お前、また薬草畑にいたのだな」
 サーリヤは頷いた。
「さすがに、薬師だな。精の出ることだ」
 どこか感心したように言って、アクラムはサーリヤの腰を抱いて小枕の上に座り込んだ。必然的に、サーリヤはその上にもたれるような形になる。滑らかな絨毯と、しっかりとしたアクラムの身体がサーリヤの身体を受け止めた。
「相変わらず、よい匂いがする」
 サーリヤの首筋に鼻をうずめて、アクラムが呟いた。
「沐浴のせいでしょう。湯船に、花が浮かべられているのです」
「それもあるだろうが、お前に草木の香りが沁みついているのだ」
「草木の……」
「薬草達の匂いだ。花のような香りと、そして日なたの匂いがする」
 サーリヤはくすぐったそうに笑いながら身を捩った。アクラムが首筋をペロリと舐めたのだ。
「あ……僕は毎日薬草に触れていますから。……それが、仕事ですので」
「ここに居るというのに」
「……そうですね。でも、僕は薬師です」
 サーリヤは彼には珍しく、きっぱりとそう言った。
「自分の為の薬師であり、ここで働く方々の為の薬師であり、そして……アクラム様の為の薬師なのです」
 アクラムはきらめく黒い瞳を眩しそうに細めると、サーリヤの唇をペロリと舐めて、ほっそりとした足首を手で撫ぜた。
 そこには、金の細いアンクレットが填められていた。
 かつては鎖に繋がれた足枷のあったところだ。
「これには、慣れたか」
「……はい」
 サーリヤが口元に手をやったまま、恥ずかしそうに頷いた。
「鎖はないが、これは枷だ。お前が俺のものであるという証だ。それに慣れたか」
 サーリヤはやはり、照れ臭そうに頷いた。
 アクラムにそこで初めて笑みを浮かべて、サーリヤの頬を撫ぜた。
「愛しい俺の月。お前は、夜はあのように美しく艶やかだというのに、昼の光の中ではなんと儚い……目を離せば今にも消えていってしまいそうだ」
 己が美しいだの艶やかだのというのには疑問を感じたが、サーリヤは自分の頬にあるアクラムの手を自らのそれでそっと包み込んだ。
「僕は何処にも行きません」
「そうだな。ここには、何人たりとて忍び込めぬし、またお前も抜け出せぬ」
「あの……そういうことではありません」
「うん?」
「僕は……僕は、アクラム様の側にずっといたいのです。だから……」
 けして言葉巧みではないが、不器用な口調と穏やかな眼差しは、アクラムの心をこの上もなく魅了する。
「だから、何だ。サーリヤ」
「……あの……ええと……」
 サーリヤは困ったように口篭る。何ともかわいらしい姿だ。人の話を聞くのは大好きだが、自分が語るのは(薬草に関すること以外は)苦手な少年なのだ。いつもならこのあたりで許してやるところだが、アクラムは今日はそうはしたくない気分だった。
「言うてみよ。サーリヤ」
「あの……僕は、アクラム様の側にいたいから……ですから……お嫌でない限り……ずっとお側にいさせて欲しいと……」
 だが、しどろもどろに告げられた言葉に、アクラムの美しい黒い瞳が燃え上がった。
「まだ、そんなことを申しておるのか」
「え……」
 きょとんとアクラムを見上げるサーリヤは、自分が危険な発言をしたことに気がついていない。
「お前は未だにわかっておらぬようだな」
 厳しい声でそう言われて、困ったように眉を下げるサーリヤを抱き上げる。
 そのまま寝室まで軽々と運び、やや乱暴に天蓋のついた柔らかな寝台の上へその身体を放り込んだ。
「あ……あの、アクラム様」
「もう一度、その身体にしっかりと教え込んでやる」
「え……あ、あの……ですが、まだ夜ではありませんし……あの」
 うろたえるサーリヤの身体を組み敷いて、アクラムは己の衣服を荒々しく脱ぎ捨てた。
「だから何だと言うのだ。沐浴をしたのだろう? ……香油は使っておらぬのか」
 怒りをその瞳に乗せたまま、口元には笑みを浮かべてアクラムはサーリヤの快楽の扉を指でなぞった。柔らかくしなやかな身体がのけぞった。
「アッ……」
 だいぶアクラムとの情事に慣れたサーリヤは、陽が暮れる前の沐浴の時には、己の下肢を丹念に清め、香油を塗りこめてアクラムを受け入れやすいようにしていた。しかし、彼がこのような時刻にそんな処置をしているわけがない。
「あ……も、申しわけ、ありませ……」
 顔を真っ赤にしたまま謝ろうとするサーリヤの唇を、アクラムが己のそれでふさいだ。
 素晴らしく巧みで、激しくも甘やかな王子の口づけ。
 とろとろに蕩けたサーリヤの耳元で、アクラムが囁いた。
「良い。……俺がこの舌で濡らしてやろう」
 厳しく叱り付けているような口調でそう言い、しかしそれはそれは優しく妖しい指と舌の動きとで、言葉通りアクラムはサーリヤの身体を濡らし、火照らせていった。
 アクラムも、サーリヤ程ではないが口数が多いほうではない。
 それゆえ、たっぷりと月が夜空に浮かぶまで、その身体でもってアクラムはサーリヤに己の愛を教え込んでいった。
 サーリヤはその快楽と痺れるような王子の愛の深さに溺れながらも、しっかりと愛しい男の思いをその身体に受け止めたのだった。








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