サーリヤは、ふっと頬を撫ぜた風の心地よさに、思わずうっとりと目を瞑った。 屈めていた腰を伸ばして、しばし優しい風を味わう。 日除けの為に被った薄手のベールが、さらさらと肌を滑りながらなびいた。 冬でも温暖な気候のこのアラビアの国は、長い夏を終えて、ようやく暑さが和らいできたところだ。 夏の太陽をしっかりと浴びて、なおかつ後宮の離れ宮の裏庭で、水を豊かに与えられてきた薬草たちは、今鮮やかにその緑を競っていた。 夏を終え、深みを増したその香りを、サーリヤは胸いっぱいに吸い込んだ。 ふいに強い風が吹いて、ベールがふわっと浮き上がる。 「あ……」 慌てて手を伸ばしたが、わずかに届かない。 そのままさらわれてしまう……振り向いたサーリヤの視線の向こうで、アクラム・アル・ハイユ王子が難なくベールを捕まえていた。 「アクラム様」 いつのまに……サーリヤは驚きながらも、まじまじと己の主を見つめた。 昨夜、いつものように離れ宮で眠ったアクラムは、朝になっても宮殿へ出かけて行くことはなかった。どうやら今日は休むことに決めたようである。珍しいことだったが、それでも嬉しくない筈はない。朝日と共に目覚めて、自分の顔をじっと見つめているアクラムに驚いたサーリヤは、そのままその逞しい腕に囲まれて甘く激しいひとときを過ごした。その後再び眠りについたアクラムの、汗に光る額にくちづけを落としてから、サーリヤは日課である薬草畑の手入れに赴いたのだった。 そして今、サーリヤの青いベールを手にしたアクラムが、ゆっくりと自分の元へと近づいてくる。 不思議だ、と思った。 サーリヤにとって、アクラムは燃え盛る炎のような人だった。 その黒い瞳は常に激しいものを湛えて輝いている。褐色の、艶やかな筋肉を帯びた若々しい身体。静かだが、鋭く深く人の心を捕らえる声。王者たる気質を充分に兼ね備えた、その圧倒的な力と熱。 だがかの王子は、このように時として音もなく行動する。まるで盗賊か、野生の獣のようなしなやかさだった。 サーリヤは何か挨拶をしようと思ったが、何と言って良いかわからなかった。 朝の挨拶は、既に朝の閨ごとの前にしてしまった。 さりとて、サーリヤが膝をついて礼を尽くすのを王子は好まない。 どうしようか迷っている間に、アクラムはサーリヤのすぐ目の前までやって来て、そしてベールをふわりとサーリヤの頭に被せた。 「……ありがとうございます」 嬉しかったが、少し恥ずかしくて、サーリヤはぼそぼそとそう礼を言った。まだターバンを巻いていないアクラムは、肩まである黒髪を無造作に後ろに垂らしている。それが未だに見慣れなくて、何だかどきまぎしてしまうのだ。 アクラムはサーリヤの礼にに目だけで答えて、薬草畑に視線を向けた。 「仕事は、まだ終わらぬのか」 サーリヤは照れくさそうに微笑んだ。 「まだ、始めたばかりですので……」 サーリヤのその返答に、アクラムは一瞬驚いたような顔をしてから、僅かに頬の辺りに笑みを浮かべた。 「では、手伝おう」 「……え……?」 きょとんとするサーリヤの前で、アクラムはさっさと袖を捲くり始めた。 「何をすれば良いのだ? 私は薬草のことは知らぬ」 「あ……ええ、ですが……」 「モタモタするな」 「……かしこまりました。あの、では、剪定を……」 「それは何だ」 「生育の悪い枝や、枯れかけた葉などを取り除いていきます」 「こういう枝か?」 「そうです。それから、これも……」 サーリヤが静かな口調で丁寧に教えていくと、アクラムは真剣な顔でひとつひとつ頷いた。 日頃は言葉少なで、むしろ自ら話すことを苦手とするサーリヤだったが、さすがに仕事のこととなると口ごもることもない。 互いに時折視線を向けながら、二人はしばし作業に没頭した。 そしてそうする内に、それぞれが自然と出会った頃のことを思い出していた。 サーリヤはこうして、薬草畑の手入れをしていた。 アクラムは、その横について回りながら色んな話をしていた――しかしその視線だけは、サーリヤの横顔と手許に向けて逸らされることはなかった。 二人は無言のまま手を動かし、そしてほぼ同時に作業を終えた頃、ひたとその視線を絡ませた。 互いに何も言わない。 けれど、確かに感じていた。 今ここに、愛し合う二人と重なるようにして――かつての幼い自分達がいることを。 アクラムは己の感情の高ぶりを感じて、一見不機嫌に見える程、瞳に力を込めた。 サーリヤは己の感情の高ぶりを感じて、一見悲しげに見える程、瞳を潤ませた。 そしてどちらからともなく、手を伸ばした。 声もなく、ただ強く、強く抱き合った。 過去の自分の幼さを、別離の悲しさを、そして再びまみえた奇跡を強く思った。 「――サーリヤ」 低く鋭い声で、アクラムは最愛の人の名を呼んだ。 サーリヤは夢見るような瞳で、王子を見つめた。 「ここにおります、アクラム様」 サーリヤは、本当に無口だった。それなのに……いや、だからこそと言うべきなのか、口を開いた時は大切なことしか言わなかった。 「お慕いしております……アクラム様」 それはどちらかと言えば唐突な言葉だったが、アクラムは口許に満足げな笑みを浮かべて頷いた。 いつも王位継承者たるべく傲然にふるまっているアクラム・アル・ハイユ王子も、こうして離れ宮の君の前で微笑んでいると、綺羅をまとったひとりの青年である。美しさと若さを湛えた面差しが喜びに満ちていた。 「サーリヤよ。お前を愛しく思うぞ」 思いがけずそんな言葉を返されて、サーリヤは嬉しくも恐れ多いような心地でぼーっとなった。 何か気の利いたことを言わなくてはと思ったが、やはりこんな時にサーリヤの舌はまったく動いてはくれなかった。しかし目は口ほどにものを言うのである。 黒々とした瞳が、湖に映った月のように輝き揺らめいている。 アクラムはその瞳を見つめたまま、ふと顔を寄せた。 熱く、微かに乾いた唇がサーリヤのそれをしっかりと包んだ。しかしサーリヤは、アクラムの愛妾――いや恋人――であると同時に薬師である。 ほんの僅かなアクラムの身体の変調を敏感に察して、身体を離した。 「――アクラム様、お身体から水気が失われつつあります。水をお摂りになり、木陰にお出でなさりますよう」 「体調は悪くない」 「いいえ……ご自覚がなくとも、夏の終わりの日差しというものは、夏の盛りよりも性質が悪いものにございます」 控えめに、けれどきっぱりと言い切ったサーリヤを前に、アクラムは思わず苦笑した。 「相も変わらず、傷や病のこととなると押しの強いことよ……わかった、そなたの申す通りにしよう。手足も汚れたことだ、沐浴をする」 「恐れ入ります……それがよろしいかと」 恐縮しながらもホッとしていると、アクラムの手がサーリヤの腰に回った。 「そなたも共に、だ」 「え……」 サーリヤはこの頃すっかり浅黒さを失った肌を赤く染めた。 「そんな……僕は……いえ、わたくしは……あの、そんな恐れ多いことは……」 「何をはばかることがある」 「あの……わたくしのような者に……どうぞそのような、分を過ぎた振る舞いをお許しになりませぬよう。旦那様の後に使わせていただきますので」 「サーリヤよ」 いっそ卑屈なほどのサーリヤの態度に、アクラムは眉をひそめた。 「何の為に、そなたに我が名を呼ぶことを許した? そなたが控えめな性分であるとは承知しているが……その言い様はむしろ私の意志を軽んじようというもの。良いか――確かにそなたは私の妻ではない。女である妻であれば、妃達と同等に情けをかけよう。だが、そなたは私の恋人。何よりも、己の命よりも愛しく思うもの……神の次に心を占める者。たとえそなたであろうと、そなた自身を軽んじることは許さぬ」 まさしくそれは、命あるものに許された最上の愛の言葉だった。 サーリヤは感極まって、アクラムの衣服の裾をそっと掴んだ。 「……お許しください、アクラム様。僕は……」 様々な想いがサーリヤの身体を駆け巡る。 誰よりも尊敬する人。神の次に崇める人。誰よりも愛しい人。求め、求められる喜びを教えてくれた、初めての、そして唯一の人。 溢れる想いがゆえに、何も言えず、サーリヤはただアクラムを見つめた。 何か言わなければ――黙っていてはいけない。ああ、だけど声が出ない。 しかし、アクラム王子はもちろん、サーリヤの瞳を見てほぼ全てを悟ったのである。 「では、ゆくぞ――あらかじめ言うておくが、沐浴の後はそなたを抱く。良いな」 その言葉に、何故抗える? サーリヤは途端に身体の先端に甘い疼きを覚えながら、夢うつつの面差しで頷いた。 ゆっくりと太陽は天頂に昇ろうとしていた。 しかし離れ宮の寝台の天井では、明けることのない夜空が宝石の煌きを湛えて、愛し合う恋人達をそっと見下ろしていたのだった。 |