メリイ・イ・チュゥ


 日の出と共に、一斉に乳香が焚かれた。
 それは毎日の習慣であったけれど、今日はいつもに比べて香りが強かった。恐らく最高級のものをふんだんに焚いているのだろう、森を思わせる芳香は神殿の奥に行くにつれていよいよ濃厚になった。
 第三王子ジャハーン・タ・メリは、この時7歳であった。
 まだ眠気でもつれる足を、傅育官であるカフラーに引きずられるようにして歩ませながら、預言の部屋に入室した。
「カフラー、ここは何?あれは誰?」
 ジャハーンは、部屋の中央に座り込んでいる得体の知れない老婆を指差した。乾燥した白髪は伸び放題のぼうぼうで、肌は黒ずんで皺くちゃだった。落ち窪んで影に沈んだ目は白く濁っていて、何か異様な力を宿していた。数多い彼の兄姉達はみなこの老婆を見るなり怯えて泣いたというが、ジャハーンはただ不思議そうに彼女をジロジロと眺めるだけだった。その肝の太さに、我が主こそ次の王たるべき存在、と密かに願っていたカフラーは(もっとも、それぞれの王子の傅育官全てにその想いはあるのだが)、満足そうに微笑した。
「あれは預言者でございます、我が君」
「よげんしゃ?」
「神の言葉を聞き、我々にそれを耳打ちする者です。あれはティエトと申しまして、スメンクカーラー王の頃より王室に使えております」
「お爺様の頃から?」
 ならば彼女は一体いくつなのだろう。おそらく70は越えているだろうが、それにしても驚くべき長寿である。
「預言者に会って、どうするの?」
「我が君の妃となるべき人を教えてもらうのです」
「ふうん……」
 ジャハーンは興味なさげに相槌を打った。王位継承権の仕組みについては、耳が痛くなるほどこのカフラーから聞いている。王位は男子が継ぐものであるが、産まれた順序は関係ない。王位継承権は王妃、または王女を妻とした王子が手にすることとなる。王子無き時は権力ある男ならば全てその対象になり得る。つまり、このティエトという預言者が告げた名前が自分の母か姉、または妹であれば、自分は王になる資格があるということだ。
「ジャハーン王子であらせられまするな」
 ひゅうひゅうと空気が漏れるような、掠れた声がその薄く萎びた唇から発せられた。ジャハーンはコクリと頷いて見せた。
「そうだ」
 ティエトはその光の見えない目で、空を見上げた。預言者は目の見えぬ者と決まっているが、その代わりに常人には見えぬ何かを見るのであろうか。ジャハーンはティエトの視線を辿ってみたが、当然そこには何も見出すことはできなかった。
「神のお告げを申し上げます」
 隣のカフラーが、唾を飲み込んだ。
「これより14回天狼星が天を巡った後、シシロ大河に神子が遣わされます。王国に恵みをもたらす、黒曜石のごとき麗しい男神子でございます。両手を合わすは輪の印。丸く終わりのなき永遠を表しております。子の恵みはなくとも、あらゆる災難から王国と王を守ってくださることでしょう。……次なる王は、ジャハーン・タ・メリ様、貴方様でございます」
 その言葉が終わるや否や、カフラーがおお、と嘆息を漏らした。
 神子を伴侶として告げられたのは、ジェト王以来、実に200年振りのことであった。神子を伴侶として定められた王は、けしてその地位が脅かされることはないが、死後は悲惨な扱いを受けることが多かった。これはひとえに、神子が現れなければ完全な王として認められないという規則の為である。
 つまり今、ジャハーン王子は自らの即位と、不完全な王たる不幸の可能性が与えられたのだった。
「神子……それが、わたしの妃」
 ジャハーンは先刻までの無関心が嘘のように、目をきらきらとさせていた。
 男を妃にするなんて、とても不思議なことのような気がしたが、それすらも特別なことに感じる。神子は美しく、気高く、誰にも汚されることのない聖なる存在である。その神子が、自分の許へ遣わされるのだ。なんて素晴らしいことだろう。
 今から14年後、彼はこの国に現れるという。
 はるかな未来ではあるが、ジャハーンはその瞬間を想像して、胸を高鳴らせるのであった。


 それから14回、天狼星は地平線下に姿を隠し、一年の始まりの夜明けと共にその姿を現しては、シシロ河の氾濫を呼んで王国の大地を潤した。ジャハーンは父であるシェプセスカフ王が崩御したその日、15歳にして王位を継承し、既に6年を経ていた。
 ティエトはシェプセスカフ王の後を追うかのように冥界へ旅立った。彼女は遺言で、神子の現れる日にちと詳しい場所を指定した。おそらくそれで生命力を使い果たしたのだろうというのが、もっぱらの噂であった。
 ジャハーンは王位を継承した後、数多くの側室を持った。側仕えと銘打って、子供も王子を3人、王女を4人作った。子が七人という縁起の良いところで神子が降臨する日を迎えられたのは、我ながら神の思し召しかと思った。
 水の神を祭る神殿と、太陽の昇る方角。その二つの点から伸びた線がシシロ大河の上で交わる所。そこに神子が現れるという。
 ジャハーンはその日、沐浴を済ませ、太陽神と水の神に祈りを捧げてから、その場所へと向かった。不思議と不安は感じなかった。神子は必ず降臨する。そう信じて疑わなかった。
 だが実際その姿を見たとき、ジャハーンは心底驚き、魂が震えるような衝撃を感じていたのだった。
 象牙のようななめらかな白い肌、流れ落ちるかのような、まったく癖のない漆黒の髪。黒曜石のような底の見えない黒い瞳。小さな卵型の顔に、しなやかな身体。
 預言通りの挨拶をしたその神子は、美しく、謎に満ちて神秘的な少年だった。
 まったく意味のわからない言葉を話しながらも、自分の名前を告げ、ジャハーンの名を尋ねてきた。ジャハーンが自らの名を教えてやると、嬉しそうに笑顔を見せた。
 その瞬間、ジャハーンは全身を雷に打たれたかと思った。
 こんなにも清らかで、愛らしく、甘く、幸せな笑顔を見たことがない。姿の美しさだけではなく、その魂の輝きがまばゆく辺りを照らしたかのように見えた。これが恋というものなのか。柄にもなくそんなことを思った。この笑顔で死ねと言われたならば、きっと自分は何のためらいもなく、むしろ喜んで死を迎えることだろう。
 何もかもが産まれて初めての感情で、ジャハーンは戸惑っていた。だが同時にそれが嬉しく、幸福感のあまり空に浮いているような心地さえした。
 神子だからこそこんなに愛しいのだろうか。
 きっとそうなのだろう。神子でなければこんなにも自分の心を揺さぶることはないのであろう。だが逆に、こんなにも愛しく思うことこそ、この少年が神子であるという何よりの証拠ではないか。自分の魂ごと惹きつけて離さぬ目に見えぬ力、これこそが神子の証なのだろう。
 そんなことを浮かれた頭で考えながら、ジャハーンは王宮に急いだ。早くこの愛しいひとを自分のものにしたい。何かの間違いで神々の世界に戻ってしまうことの無いように、けして壊れぬ鎖で繋いでしまいたい。
 しかし鎖でもって捕らえられたのは、自分の方であった。
 その甘美なる肉体で、愛らしい表情で、男を猛らせる仕草で、純真な眼差しで、ジャハーンを虜にした。
 いくら憎まれ口を叩かれようと、痛くはないが暴力を振るわれようと、邪険に扱われようと、全てが睦言のように思えてしまう。それは我ながら愕然とする程であった。
 いかに権力ある貴族であろうと、王宮に入る時は跪いて地面に接吻をしなければならない。王はそれくらい気高い存在であった。その王たるべき男として7歳のあの時より生きてきたこの自分が、このザマである。ジャハーンは大声で笑い出したいような心地だった。なんとみっともない。だが何て楽しく幸せな姿であろうか。
 神子はあらゆる場面で、自分の常識を覆し、新たなる価値観、世界観を見せてくれた。それはどんな諫言よりもジャハーンの暴走を沈め、優しさでもって全てを包み込んだ。神子にかかればこの世から悪人はただ一人として居ないことになる。 そう苦笑しながらも、その寛大さを心底尊敬してもいた。自分には絶対に出来ないことだ。

「ジャハーン、お兄さん、お姉さん、とか、弟、いも、いも……妹、とか、居ない?」
 片言のおかしな発音で、神子が尋ねて来た。この所簡単な会話なら交わせるようになってきて、何度も口篭りながら一生懸命に話すその姿は、誰もが笑みを誘われるほど愛らしかった。
「もちろん、居るぞ。兄が二人、弟が一人、姉が四人、妹が二人だ」
「えっ! すごい、たくさん」
「そうか? こんなものであろう」
「ううん、タイヘン。お母さん、すごいね」
「うん? ああ、いや、母は皆同じではないが」
「え? あ、ああ……そっか。王様、嫁たくさん」
「そうだ。だが、嫁は一人だぞ」
「え? え?」
「神は一夫一妻と定めている。まぁ他のは、妾というやつだ」
「メカケ?」
「詰まるところ愛人だな」
「アイ、ジン……」
「まあ、そんなことは知らなくとも良いが。それで、一体何故急に兄弟のことなど言い出したのだ?」
「話す、理由、ない……けど、兄弟、会うしない? みんな、け、けこん、結婚してる?」
「末妹はまだ12歳にならぬ故結婚はできんが……なんだ、私の兄弟に会いたいのか?」
「え? ううん、俺違う。ジャハーン。会うしたくない?」
「いや、特に今のところ用はないが」
「違う、用ない、でも会うしない? 兄弟会う、普通でしょ? 一緒暮らすしない?」
「兄弟と言ったところで、一緒に育ったわけでもなし。ことに王族は要らぬ争いを起こさぬよう、幼少の頃より隔てて暮らすのが決まりだ。血の繋がりはあっても、まあ他人と変わらぬからな」
「そう……もったいない」
「勿体無い? 何がだ?」
「俺、兄弟ない。一人。兄弟欲しい、でもない。だから、兄弟いいな、そう思う」
「……そうか」
「ねえ、兄弟似てる? ジャハーンと」
「さあ、どうだろう。私は父親似と言われているから、同じ父親似と言われるジェセルと、ネフェルトとは似ているかもしれんな」
「へえ……いつか、会うできるかな?」
「そうだな、結婚式には会えるだろう」
「ケッコンシキ……」
 神子はポッと頬を染めて、眦を吊り上げた。
「俺結婚するしない、からな!」
「何を言う。お前と私が結婚することは、14年も前から決まっていたことなのだぞ」
「それ、違う! 俺神子違う!」
「お前が神子でなくて誰が神子なのだ」
「えーと、それは、えーとえーと……」
「いい加減に自覚したらどうだ。まあ、そこがお前の可愛いところではあるが」
「可愛い言うな! 俺女違う! バカッ!」
「可愛いものを可愛いと言って何が悪い? お前が女でないのは私が一番よく知っている」
 途端に、その小さな顔が面白いくらい赤く茹で上がった。
「う、うるさい、うるさい! バカ、ジャハーンバカ! もう話すしない!」
「そう怒るな。何も間違ったことは言っていないぞ。何がそんなに気に障るんだ?」
「うるさーいッ! あっち行け!」
 ついに神子は爆発してしまったようだ。そんなに顔を赤くして大丈夫なのだろうかと、浅黒い肌しか見たことのないジャハーンは心配を隠せない。だが今それを言ってはもっと怒って興奮してしまうだろう。まったく気持ちの読めん奴だと、微笑みながらジャハーンはお望み通り神子の側を離れた。どうせもうしばらくして落ち着けば、不安がって自分の姿を探すようになるのだ。その時はかわいい唇を奪ってやろう。
 偉大なる国王の、伸びきった鼻の下を咎める者は、ここには誰一人として居なかった。

 ジャハーンのことを口では散々にけなして拒絶しながらも、愛しいと囁けば頬を染めるし、可愛いと褒めれば怒ったように照れる。普段は絶対に自分から寄って来ないくせに、快感の余り正気を失っている時や、寝ぼけている時は、自分の名を呼びながら必死にしがみついて来る。その全てが愛しくてたまらないということが、彼は本当にわかっているのだろうか。時に不安そうに瞳を揺らめかせるこの少年に、自分の心を見せてやれたらいいのに。そう思うけれど、焦る気持ちはない。
 何しろ14年も待ったのである。この先何年何十年かかろうと、彼が側に居てさえくれれば、いつか完全に分かり合える時がやって来るだろう。
 廊下の向こうから聞こえてくる、自分を呼ぶ怒りを装った声に、ジャハーンはうきうきと腰を上げたのだった。