ささやかなる計略



 行方知れずだった王妃が王宮に戻ってから、早半年。近隣諸国にこれといって目立つ動きもなく、国内も平穏を保ち、王宮はこれ以上ない平和に安らいでいた。
 そうなると、日常に刺激を求めるのが人間というもの。
 特に、まだまだ少年の域を出ず、じっとしているのが何より苦手な性分の神子は、近頃退屈を持て余していた。
「あーっ、何かおもしろいことないかなぁ……」
 今日は恒例の後宮部隊の練習も休みで、これといった公務もなかった。なのに、夫であるジャハーン・タ・メリ国王陛下はしっかりと公務に出かけている。もちろん、これは彼の役目なのだから、あいつばっか仕事があってズルイだの何だのと言う神子の言い分は、いささか不当のものではあるのだが。
「またちょこっと王宮を抜け出したりとか、できないかなぁ」
 などと、国王が聞いたら怒りの余り卒倒しかねないことまで言い出す始末。
 側に控えるピピも、心持ち顔を引きつらせていた。
「ご冗談が過ぎますよ、神子。ご結婚される前ならともかく、今やご立派な王妃様になられたというのに、軽々しく外歩きなさりたいなんて……たとえお言葉だけでも、おっしゃってはいけないことです」
 この頃すっかり大人びて、ついに自分の身長を抜かしてしまったピピを、神子は恨めしげに見上げた。
「ちぇっ、なーんだよ。すっかりかわいげがなくなっちゃってさあ。あの頃はピピもかわいかったのになー。俺が帰りたいって駄々捏ねたら、真っ青になってうろたえてたくせに」
「僕だって、成長します。神子にもしっかり王妃としての認識を持って頂かなくては、取り立てていただいた王に申し訳が立ちません」
「なんだよ、陛下陛下って。ピピは俺に使えてんだろーが」
「神子……」
 ピピは困ったように首を傾げた。そういう表情をすると、まだまだ幼い少年である。
「もちろん、僕の主は神子です。他の誰よりも、どんな神よりも、神子を尊敬申し上げています」
「そんならいいけどさ」
 やっとこれでお兄さんぶれる、とでも言わんばかりに、神子はにっこりと笑った。
「二人で何の話? ずいぶん楽しそうじゃないか」
 背後からにゅっと細い腕が伸びて、神子の首に回った。
「アマシス!」
 相変わらず、特殊な訓練でも受けたのかというほど、忍び足のうまい男である。
「アマシス様、神子が退屈だと嘆いていらっしゃるんですよ。かといって、まさか前のようにお忍びなんて以ての外じゃないですか」
「まーねえ。さすがにまた潤がさらわれたなんて言ったら、今度ばかりは王も寝込んじゃうんじゃないの?」
「アマシスまで。……俺だって、本気でそんなこと思ってやしねーよ。だけど、最近仕事まで減らされちゃってさ。退屈で仕方ないんだもん」
「どうだか。……ま、でも王もちょっと大人げないよね。いくらあんなことの後だからって、心配なのはわかるけど、潤の公務を減らすなんてさ。そのせいで自分が前より忙しくなってんだから、余計に潤を放っておくことになるってことに気がついてないのかね」
「そーなんだよ。そーなんだって! あいつ、自分ばっか忙しいみたいな顔しちゃってさ。ったく、嫌がらせかっつうの」
「み、神子……」
「じゃあ、ここらで一発こらしめてやれば?」
「え?」
 潤はキョトンとして、ピピと顔を見合わせた。
「こらしめるって……」
「そんな固く考えなさんなって。軽ーく、ギャフンと言わせるだけだからさ」
「ギャフン……」
 神子は何かを想像したのか、嬉しそうに目をキラキラと輝かせ始めた。
「楽しそうだな、それって」
「い、いけません。そんなこと。アマシス様も、何をおっしゃるんですか!」
「なーんだよ。こういう展開を期待して、僕に相談したんだろうが」
「違いますーっ!」
「ピピ、ナイショにしててくれるよな?」
「もししゃべったら、男娼館に売り飛ばすからな」
 ピピはゾッとするようなアマシスの脅し文句に本気で恐怖を覚えて、コクコクと頷くのであった。

 さて、陽が落ちた直後のこと。
 今日もやっと公務を終えて、王は疲れた身体に鞭打ち、愛しの王妃が待つ後宮の母屋へと帰って来た。今ではすっかりここが王の寝床なのである。
「潤、今戻ったぞ。潤、潤は何処だ」
 しかし、声を張り上げてもいつものように出迎える神子の姿がない。
「潤、居らぬのか? 潤!」
「畏れながら……神子におかれましては、ご体調が優れぬようで……寝床に伏せっておられます」
 ピピが不自然なほど目を伏せながらそう言うのに、王は血相を変えた。
「何と! 伏せっておるだと? 今朝まであれほど元気だったものが……怪我でもしたのか!?」
「は、はい……あの、それが」
「良い。自分で確かめる」
 王はもどかしげにそう言うと、早足で神子の寝室に向かった。
 神子は寝台の上で、ぐったりとした様子で横になっていた。灯芯を短く切ってでもいるのか、部屋の中は薄暗かった。そのせいかどうか、神子の顔色も悪いように見える。
「潤、一体どうしたというのだ」
「ご、ごめんな。ジャハーン。出迎えられなくて……ううっ」
「そのようなことを気にするな。お、おい、大事無いか。どうした、気分が優れんのか?」
「なんだか……気持ちが悪くて……」
「悪くなったものでも、誤って口にしたか? ……吐きたいのか? ならば、吐いてもかまわぬぞ。私が受け止めてやるゆえ」
「う、ううん……大丈夫。ありがとな。でも、心当たりはあるんだ」
「心当たり? 一体何だ」
「その……医師に報告してみたら……俺、妊娠してるって」
「妊娠だと!!!?」
 まさに寝耳に水とはこのこと。王は鳩が豆鉄砲を喰らったかのような顔で、しばし呆然と立ち尽くしていた。
 薄い織物に包まりながら、神子が笑いを堪えていることなど、無論気付きようもない。
「なんと……なんと、そのようなことが……」
「お、俺も、ビックリしたんだけど、さ……」
 そう言う声も震えているのだが、未だ驚きに包まれている王にはそれを訝る余裕すらないらしい。
「だけど、気持ち悪いよな、男の俺が妊娠してるだなんてさ……なーんちゃっ……」
「でかしたぞ! 潤!」
「……へっ?」
 慌てて織物から顔を出すと、王は目をうるうるとさせて潤を見つめていた。
(ウッ……な、なんか嫌な予感が)
 まさしくそれは、王が欲情を来たしている時の目つきである。だが王は神子の身体をそっと抱きしめると、優しく織物を掛け直してやるだけであった。
「あのー……ジャハーン?」
「神子というのは、まこと神聖なるものなのだな! 男ながらにして子を授かるとは……まさしく神の子供よ。おお、大事なこの身体、夜気に冷やしてはならんぞ」
「ウ、ウン……」
 形勢逆転というべきか。見事に目論見が外れたというべきか。戸惑い、混乱し、困り果てるのは王の筈であったというのに、すっかりこちらが冷や汗をかいている。
「さっそく、出産の支度に取り掛からねばな。赤子の衣服や、遊び道具もそろえねばなるまい。それに、赤子の無事な成長を神に祈らねば。おおそうだ。これを機に神殿を一つ建ててもよいな」
「え、えっと……あの……」
「そうそう、お前はこれからは公務は一切せずとも良いからな。万一のことでもあったら一大事だ。後宮部隊もこれを機に引退いたせ。良いな?」
「え、えーっ!? そんなの嫌だよ!」
「仕方あるまい。その替わり、欲しいものは何でもそろえてやるゆえ。うん? 何が欲しい? 赤子の為に、アスワン王国を落としてやろうか?」
「な、そ、そんなのいいって! いらないよ」
「まったく欲のない奴よ。しかし、これからは赤子の分もあるのだからな。いつまでも無欲であるのが良いことではないのだぞ。もうお前は一人ではないのだから。二人分欲しなければならん」
「ふ、二人分って……だって、だってそれは」
「どれ、私にお前の赤子を見せてみよ」
 ジャハーンはさっき掛けたばかりの織物を、今度ははぎとってしまう。
「腹はまだ平らだな」
「そりゃそーだよ……」
 ここまで喜ばれては引くに引けず、ひたすら神子は、どうしようどうしようと心の中で喚くだけである。
「良いな、お前は欲しがらなさ過ぎるのだ。一度欲すればそれは乱れるものを、なかなかそうせぬのだからいかん」
「だからさ……って、乱れるって……え?」
「ほれ、お前の赤子はこんなに素直だと言うのに」
 そう言って、王は神子の下肢の一物に唇を寄せた。
「あんっ! ……ジャ、ジャハーン……あんた……」
「おお、かわゆいことよ。元気な赤子だ。お前によく似ている」
「アッ、いやぁっ……歯、立てんなって……」
「すまんすまん。つい愛しくてな。大事な身体なのだから、優しく優しくせねばならんな」
「って……お前、気がついてたのかよ!」
 真っ赤になって怒り出す神子に、王は耐え切れぬと言ったように大爆笑した。
「ハッハッハッハッハッハ! してやったりと思っておったか? 潤。そのような可愛い嘘などつきおって。どれ、かまってもらえず淋しかったのか? こら、顔を見せよ」
「知るか! 馬鹿野郎! この、ペテン師!」
「ペテンとは聞き捨てならんな。そもそも仕掛けたのはお前であろうに」
 神子に殴られ、蹴られても、王は笑いが収まる様子はなかった。
(ウウッ、悔しいっ悔しい! まんまとしてやられた!)
「だ、だけど、何で嘘だってわかったんだよ。もしかしたら本当かもしれないじゃん!」
「さあて、どうしようか……まあ、これ以上臍を曲げられては、元も子もないからな。教えてやろう。潤、お前はな、いつも嘘をつくとき、瞬きが多くなるのだ」
「えっ!」
「私を大嫌いだの、あっちへ行けだの言う時は、必ずぱちぱちと瞬きばかりしておるのでな、まあ、嫌でも本心が知れて愛いと言うわけだ」
「そ……そんな癖が……」
 神子は両手で顔を覆って、ただ恥ずかしそうにするのみである。
「しかし、このところは、私も少しやりすぎたな。お前の公務の量はもとに戻す。それから、今度一緒に神殿に祈りを捧げに行くか。うん? このところシシロも穏やかだから、船を出しても良いぞ」
「えっ、マジで?」
「おお、もう嘘はつかんぞ。後にも先にも、お前につく嘘は先刻の一度きりだ」
「……俺も、なるべく嘘はつかないようにするよ。っていうか、嘘ついてもバレバレなんじゃ意味ないもんな」
「別に嘘のひとつやふたつ、かまわんぞ。全てひっくるめて、お前を愛しているのだから」
「ジャハーン……」
 神子はたちまちうっとりとした目をして、王の胸に身体を預けた。
「どうした? 潤」
「俺も、今日は素直になるよ。……あんたが欲しい。俺を放っておかないでくれ。忙しくっても、ちゃんと俺の相手してくれよ」
「これはまた、可愛いことを言う。よし、今宵は心ゆくまで、お前の相手をしてやろう。しっかりとついて来いよ」
「あ……ジャハーン」
 高まる期待に、神子はそっとその震える瞼を閉じた。

 こんなささやかな騒動は、結局のところ、いつまでも蜜月の二人の愛をより一層燃え上がらせるだけだったようだ。
 徐々に深くなる夜の闇とは裏腹に、後宮の母屋では、延々と甘い囁きが交わされるのであった。