アムステルダム空港の広々とした明るい空間に足を踏み入れた時、この旅が終わるのだということを自覚した。イタリアを発って約3時間も経ったというのに……まだこれから12時間も飛行機に乗らなくてはならないのだけれど、それでも旅はほぼ終わりを迎えていた。
 きれいな空港内には、様々な免税店が配置されていたけれど、そういった買い物は数日前に済ませてしまっていた。人で賑わう香水や化粧品の売り場に用がある筈もない僕は、広い通路をゆっくりと歩いていた。バックパックはKLM航空に預けたままなので、至って身軽だった。フィレンツェの町をぶらついていた時と変わらない状態だけれど、明らかに心境が異なっていた。
 日本に帰るのだということを、強く意識していた。
 終わりつつある旅を惜しむような気持ちで、財布に残ったユーロを手に普段は絶対に入らないような上品なシーフード・バーへ足を踏み入れた。ショー・ウィンドウ内の氷の上に並べられた、色とりどりの魚介類を眺める。何になさいますか、とオランダなまりの英語で尋ねられたものの、いつにない贅沢に気後れしてすぐに返事を返せなかった。
 最後くらい、ちょっと豪勢にしてもいいじゃないか。
 そう思っても、一人で何を頼んでいいのかわからない。
 視線を彷徨わせていると、ショーウィンドウの上に置かれたPOPが目に入った。
 生牡蠣とシャンパンのセット、20ユーロ。
「これをお願いします」
 ドミトリー一泊分の値段に近いなと思いながらも、思い切ってオーダーすると、僕よりも背の高い女性スタッフがにっこり笑って頷いた。着古したブルゾンに、こちらの懐具合が窺われるのだろう。20ユーロぴったりを渡すと、奮発したわね、というようにウィンクされてしまった。
 傍らに居た男性スタッフがナイフで器用に殻を剥き、女性スタッフが細長いシャンパングラスに淡い金色の液体を注ぎ入れる。
 小さなトレイに乗せられたそれらを持って、近くのテーブルについた。
 さて、と胸の中で呟く。
 一人だけの送別会というわけだ。
 だけど、一体何に乾杯すれば良いのだろう?
 この旅に? フィレンツェにいるアレッシオに? それとも、旅を終えようとする自分に?
「……乾杯」
 僕は口の中で小さく呟いた。
「……乾杯……誠司に」
 掲げたグラスに、ふいに他のグラスが合わせられて、カチンと可憐な音を立てた。
「乾杯、一真に」
 誠司はそう言って微笑むと、グラスを呷った。
「……僕に?」
「一真の悲しみに」
 彼らしい淡々とした口調だった。
「だけど、誠司、僕はもう悲しくはないよ」
「うん」
「確かに悲しかった。自分が悲しんでいるってわからないくらい、途方に暮れてた。だけど今は立ち直れた。乗り越えられたんだ」
「うん。わかってるよ、一真」
 誠司は遠くを見つめるように僕を見つめていた。
 いや、彼は僕の中にある何かを見つめていたのだろう……この世のものではない、去り行く何かを。
「俺はもう過去の人間だから……お前が俺に乾杯してくれるなら、俺はお前の悲しみに乾杯するよ。もう過去になった悲しみに」
「それは、皮肉?」
 かつて交わしたやりとりと同じに、僕はこうしてひねくれた返事を返す。
「まさか。人間は生きている限り進んでいくものなんだから、それで正しいんだよ。たとえ過去の存在になったって、一真が悲しみを忘れたって、それはけして悪いことじゃない。いつかまた思い出す時がくるだろ。その時、きっとその悲しみはお前の糧になる……新しい悲しみを乗り越えるための」
 なんだか泣きたいくらいなつかしかった。
 その哲学じみた話の内容、静かだけど力強い話し方、縁なしの眼鏡の向こうの穏やかな眼差し。
 そして今はもう触れることのできない、長い指を組んだその両手。
「……確かに、それは過去になったよ。だけど、忘れたくない。絶対に」
「過去というのは、忘れたくなくても忘れてしまうものなんだ。生き続けていれば当たり前のことだよ。悲しむことじゃない」
「でも忘れるのは嫌なんだよ、誠司」
「たとえ忘れたとしても、過去はなくならない。また思い出す時がくるよ」
「誠司は、それでも平気なの」
「……一真、過去に感情はないんだよ。俺はお前の思い出なんだから、お前がそれをどう扱おうとお前の自由なんだ」
 それはけして卑屈な意見には聞こえなかった。
 誠司は当然という顔をしてそう言った。
「さて、もう行かなくちゃ」
 グラスを持ったまま、誠司は静かに立ち上がった。
「もう、会えないの?」
「会えるさ。思い出の中で」
 そう言ってから、微笑んだ。
「なんてね」
「……気障」
「何とでも言ってくれ。じゃあな、一真」
「……誠司」
 待ってくれ、とは言えなかった。言ってはいけない気がしたし、何故か言おうという気も起きなかった。
「さようなら、一真」
「……さようなら、誠司」

 ――さようなら、さようなら。

 ふと目を開けると、機内には薄闇が降りていた。
 ずいぶんと長いこと眠っていたらしい。体のあちこちがぎしぎしと痛んだ。
 それにしても、鮮明な夢だった。
 まだぼんやりとした頭のまま、そっと窓を開ける。
 すると、夜が明けようとしているところだった。
 濃紺の空がある地点で白っぽい青に急激に変化している。飛行機の下に敷き詰められた雲は、自然発光しているかのようにほの明るかった。
 ああ、日本が近いのだと思った。
 たった一ヵ月半だというのに、随分長いこと離れていたような気分だった。
 あまりにも色んなことがあったせいだろう。
 日本を発った時と、帰ろうとしている今とでは、随分と色んなことが変わってしまった。
 誠司のこと以外考えられなかったあの頃の自分とは違って、今僕の頭の中には、アレッシオのこと、自分自身のこと、そしてこれからのことで詰まっている。
 それはとても満ち足りた心地だった。
「――おはようございます。当機は只今、中国上空を飛行しております。成田到着予定時刻は午前8時10分、現地の天候は晴れ、気温は……」
 朝焼けに染まる空を、機内アナウンスが流れる中でじっと見つめていた。
 夜が、明ける。
 だけどまた太陽が沈む時が来るように、人生の中で幾度となく悲しみは僕を訪れるだろう。
 それは時を変え姿を変え、かつて以上に僕を苦しめるかもしれない。
 だけど、今は。
 今はこの夜明けと共に、こう言おう。

 ――悲しみよ、さようなら



Fine



TOP






TOP