愛しい人

 母親の記憶などほとんどなかった。
 それでも母親が自分の側から突然いなくなって、とても悲しくて不安に思ったのは覚えている。
 真っ暗な夜道に、一人置き去りにされた気分だった。
 だけど、僕には腹違いの兄が居た。
 何度か顔を合わせたことがあるだけの兄は、それでもすごく頼もしくて、優しかった。
 心細い時は力強く励ましてくれたし、いつでも堂々としている兄の側に居ると、何も怖いことなんてないんだという気になった。
 そして、僕にはもう一人の母親ができたのだ。
 母親と言っても、その人は女ではない。れっきとした男だ。
 だけど誰よりも綺麗で、誰よりも明るくて、そして誰よりも優しくて……その人に出会った瞬間から、母親に対する思慕は全て彼へと募った。真っ黒な髪と瞳、信じられないほど白い肌を持った美しい人。
 それは、この国で神子と呼ばれる人だった。

「ラダメス!」
 父上に負けないぐらいよく通る声で僕の名前を呼びながら、兄が足音高く部屋にやって来た。
「なんだ、お前また勉強をしていたのか」
 呆れるようにそう言って、兄は僕の机の上に手をついた。
「人一倍勉強しなくては、書記官にはなれないからね」
 書記官になるには、数カ国の言語を修得しなければならないし、ひどく難解なこの国の文字を正確に書けなければならない。王の子供と言っても王位継承権があるわけでもない僕は、それなりの地位を守る為に努力をしなければならないのだ。
「勉強も良いが、たまには一緒に狩りに行かぬか。お前もまだ12歳になったばかりではないか。もう少し身体を動かせ」
 そう言って兄は朗らかに笑う。
 まったく、誰の為に勉強しているのだと思っているのだろう。
 全て、ゆくゆくは王になるでろう兄の役に立ちたいが為だというのに。
「でも、僕は狩りはあまり好きじゃないよ。外は暑いし」
「そんなことを言っているから、いつまでたっても身体が強くならないのだぞ」
 病弱なのは生まれつきだ。
「人には得意不得意があるのだと、母上が言っていたじゃないか。僕はこれでいいのさ」
「まあ、それはそうだが……それでは、お前は今日は外に出るつもりはないと言うのだな」
「日差しが和らいでから、少し散歩をしようかと思っていたけど」
「そうか」
 兄は意地悪気に笑った。
「では私一人で行くことにしよう。実は、母上が中庭で昼食を共にしないかとおっしゃっていたのだが、外に出たくないと言うのであれば仕方ない。母上にはそのようにお伝えしよう」
「兄上!」
 僕は慌てて羽ペンをペン立てに戻した。
「ずるいぞ! 最初からそう言ってくれれば、僕だって」
「何だ、そんなか細い声で言われたって聞こえんぞ!」
 そう言いながらずんずんと遠ざかっていく兄を、僕は慌てて追いかけたのだった。

 母上のお気に入りの中庭は、さながら植物園のようだった。
 小さな池が作られており、その上には蓮の花が浮かんでいる。木陰に小さなテーブルを置いてゆっくりと食事をするのが、母上の趣味のひとつだった。と言っても、彼は飾り気のない人柄だから、けして華美なものを用いたりはしない。まるで庶民のような簡素な家具を好む人だった。
「ウセル、ラダメス、よく来たな」
 母上はいつも、笑顔で立ち上がって僕達を迎えてくれる。
 いつも公務で忙しい母上が王子達と会うことは滅多にない。小さな頃ならまだしも、成長した王子達はきちんと目通りを願い出て、それが王に認められた上で、更に母上の都合がつく時まで待たねばならないからだ。その手続きはとてもややこしい上に、そうそう頻繁に申し出をすると父上に睨まれる恐れがあるので、僕達は月に一度を限度と決めていた。
 でも母上はそういう状況を不憫に思ってか、時々こうして昼食やお茶に招いてくれるのだ。
 母上が気の許した召使達に囲まれての食事は、決まりごとや形式に捕らわれないとてもなごやかなもので、僕達は心から寛ぐことができた。何より、母上が愛情たっぷりに僕達をもてなしてくれるので、それはまさに至福のひとときと言って良かった。
「今日は、俺がパンを焼いたんだ。前はちょっと失敗しちゃったけど、今回はバッチリだぞ。イチジクのジャムもあるから、たくさん食べてくれよな」
 得意げにそういう母上は、とても愛らしい。言葉使いは男らしいのだけど……。
 今年で確か23歳になられた筈だけれど、こういう時は子供みたいだ。
「わあ、おいしそうですね」
 僕がそう言うと、急に淋しそうな顔をする。
「ラダメス、いつも言ってるじゃないか。俺に敬語なんか使うなって」
「……でも、王妃に失礼な口は聞けませんから」
「だっからさあ、他の連中が見てるとこなら仕方ないけどさ、今はいいじゃん。俺たちしか居ないんだしさ」
 そう言って、テーブルにひじをついて目をキラキラさせながら僕達を見つめてくる。
 僕は兄上と目を見合わせて、ちょっとだけ笑った。
 こういうところが、いつまでも父上の心を捕えて放さない秘訣なんだろうか。
 こんなこと言うと、また生意気だぞ、子供のくせにって怒られてしまうんだけれど、つくづくそう思う。
 黙っているときは、何処か冷たい印象さえ受ける程神秘的な美しさをたたえている人なのに、無邪気に笑う姿は僕の目から見ても可愛らしいのだ。
「……わかったよ、母上」
 昔みたいにそう言うと、母上は嬉しそうににっこり笑った。
「よっし。じゃあ、喰うか。ほらほら、二人とも遠慮すんなよ。育ちざかりなんだからさ」
 そう言って、手ずから料理を取り分けてくれる。
 兄上がそれを受け取りながら、僕にチラッと目配せをしてきた。
 僕はそれに頷いて見せた。
 兄上の言いたいことは分かっている。
 今日は徹底的に母上を喜ばせてあげよう、そう言っているのだ。
 母上がずっと寵愛してきた召使が、三年前に書記官になって母上の側から離れたのだけれど、その彼がこの前出世して、地方の代官に任命されたのだ。と言っても、王の直轄地だからそんな遠くではないのだけれど、母上はそのピピという男を心から信頼していたらしく、「仕方ないことだよな。ピピの人生だし」と言いながらも淋しそうな様子を見せている。
 母上は後宮の側仕え達とも仲がいいし、ご自分も一人側仕えを持っていらっしゃるし、他にもたくさんの召使達を「友達」と言ってはばからない。それでも、やっぱり淋しくて仕方ないみたいだ。
 それから、僕達は食事をしながら、何でもないようなことを面白おかしく話した。
 母上はいつでも話す人の目を見て聞くし、面白いと思ったら声を上げて笑ってくれるから、もう僕達はそれこそ競い合うように話していた。
 兄上が、居眠りをしていて貴重な文献の上に涎を垂らしてしまった話をしている時だった。
 奥の方から召使達の慌てたような声と、荒々しい足音が聞こえてきた。
 母上は動じた様子もなく、ただ呆れたように溜息をついた。
「やれやれ。お邪魔虫の登場だな」
「……誰が虫だと?」
 ライオンが唸るような声を上げて、父上は母上の隣の椅子に座った。
 僕達は椅子から立ち上がって、その場に平伏する。
「父上、お久しぶりでございます」
「父上、お元気そうで何よりでございます」
 父上は鷹揚な仕草で頷くと、僕達に着席の許可を与えた。
「二人とも、椅子に座れ」
「ありがとうございます」
 僕達は立ち上がって、再び椅子に座った。
 凛として涼しげな母上と比べると、父上は炎の燃えさかる太陽のような人だった。
 いつも猛々しく、威厳に満ちている。父上の前に出ると自然と緊張して背筋が伸びるのだけれど、母上だけは違うようだった。
「まったく、さっきまでなごやかないい雰囲気だったのに、あんたが来ると台無しだよなぁ」
「何を言うのだ、潤」
「だって見ろよ。二人とも硬くなっちゃってさ」
 母上に咎められて、父上はウームと唸った。
「ウセル、ラダメス、二人とも力を抜け」
「はい、父上」
 そう返事をしたものの、僕は困ってしまって兄上とこっそり目を合わせた。
「どうだ、二人とも寛いでいるようだぞ」
「どこがだよっ」
 母上は笑いながら父上の肩を叩いた。父上は、おお痛いと言いながらわざとらしくそこを擦っている。それを見て母上が嫌な顔をし、またそれを見て父上が笑う。
「それにしても、どうしたんだ? こんなに早い時間に。今日は午後は石切り場の視察に行くって言ってただろ」
「これから行くところだ。だが通り道であることだし、お前の可愛い顔を見ておこうと思ってな」
「だーっ、子供の前でそんなこと言うんじゃないっ」
「子供の前だろうと何だろうと、愛しいものは愛しい」
「そういうことじゃなくて、教育上まずいだろうが。あのな、この際だから言っておくけど、だいたいあんたはいつも……」
 何だかんだ言って楽しげにやりとりをする二人を前に、兄上と僕は目を見合わせて頷きあい、そっとその場を離れた。
 母上を嫁に迎えることができれば、たとえ僕だとて王位を継承することができる。
 その事実に、まったく心を動かされないと言ったら嘘になるけれど、結局のところ、僕にとってあの二人は理想的な夫婦像なのだ。自分が父上に取って代わりたいというよりも、いつか自分も、父上にとっての母上のような存在を見つけて、そして家庭を築いていきたい……そういう気持ちの方がはるかに大きいのだ。
 きっとそれは兄上も同じだろう。
 だけど、それまでは……と思う。
 いつかそんな存在を見つけるその日までは、母上は僕達の愛しい人なのだ。
 密かにそう思うことくらい、許して欲しいものだ。