後宮部隊の練習を終えた後、いつものように水浴をして、俺はふと鏡に映った自分の姿を見て溜息をついた。 この国の鏡は、俺の居た世界のもの程、鮮明に姿を映してはくれない。 それでも、そこに映る俺の身体が貧相なのは、明らかだった。 「あーあ……何でかなぁ」 ボディービルダーのように、フンッフンッと声を上げながらポーズを作ってみるのだが、腕や胸まわりの筋肉は、申しわけ程度の盛り上がりを見せるだけだった。 王国の強烈な日差しを直に浴びることがほとんどない俺は、未だに生っちろい肌のままだ。生まれつき浅黒い肌の王国の人間に囲まれていると、余計にそれが強調されるようで気が引けた。かと言って、日光浴をしようものなら、たちまち赤く肌が腫れあがってしまい、激痛で夜も眠れなくなる始末だ。それで少しは小麦色の肌に近づけるものなら我慢もするが、赤味が引いた後はすっかり元の白い肌に戻ってしまうのだから、やりきれない。 ならば身体を鍛えて、憧れのマッスルバディに近付きたいと思ったのだが、毎日こんなに身体を鍛えているというのに、ここまで効果が目に見えないと言うのも……かなり空しいものがある。 「クソッ……この前はアジーザにも負けちゃったしなぁ……」 後宮部隊の中で、腕相撲を流行らせたのは俺自身だった。 暇を持て余した女達は、公務のある俺よりも身体を鍛えるのに時間を多く費やすことができる。とは言え、腐っても俺は男である。まさか彼女達に負けるなんてことは、考えたこともなかった。 ところが、俺よりもずっと男らしい(?)エマルーにはアッサリと敗北し……まあそれは許せるとしても、何と先日は、エマルーよりもはるかに華奢なアジーザにまで負けてしまったのだ! あの時のショックと言ったらなかった。 もちろん簡単に負けたわけではなくて、けっこういい勝負だったのだが、負けたことに変わりはない。汗臭いことに興味はない、なんて顔をしておきながら、エマルーに対抗心を燃やすアジーザは、密かに特訓を積んでいたらしいのだ。 俺が提案した腕相撲大会(?)が、図らずもアジーザを鍛えさせる結果になってしまったというわけだ。 それにしても……それにしても……ショックだ。 俺だって、以前に比べたらそうとう体力がついたと思う。 力だって強くなった筈だ。 だけど、やっぱり元々筋肉のつきにくい体質なんだろうか。鏡に映る体は、贔屓目に見ても引き締まった体つき、と言ったくらいで、たくましいと言うには程遠かった。 釈然としない気持ちのまま自分の部屋に戻ると、そこには今年12歳になったウセルと、9歳になったラダメスが俺を待っていた。 「母上、お帰りなさい」 「訓練でお疲れになったでしょう」 嬉しそうに俺を迎えてくれる二人に、俺も笑顔で応えた。 「ただいま、ウセル。ラダメス。二人とも元気そうだ」 まだ幼いラダメスはともかく、もう(この国では)子供とは言えない年齢になったウセルとは、普通に暮らしていては滅多に顔を合わせる機会がない。寂しいことだけれど、王宮のしきたりだから仕方なかった。だから俺はこうして、たまに二人を招いてお茶を飲んだりお菓子を食べたりしながら話をすることにしていた。 干しナツメや、オレンジの砂糖漬けを摘みながら、二人の話を聞く。 王妃である俺とは違って、比較的自由に行動できる二人の話は、どんな他愛ないものでも俺にとっては新鮮で面白かった。中でも、ウセルが先日行ったというライオン狩りの行事は、俺の肝を冷えさせると同時に、聞いててすごく興奮してしまった。 「怪我はなかったのか? ウセル」 「かすり傷ひとつ負っておりません。しかし、私一人の力で仕留められなかったのが口惜しい……」 「でも、また来年もやるのでしょう? 兄上」 「そうだ。次こそは必ず我が手で息の根を止めて見せようぞ」 うーん、この頃話し方までジャハーンに似てきたなぁ。 何だかすっかり大人びてきちゃって……前は一緒に寝てあげたことだってあったのに、子供ってあっという間に大きくなっちゃうんだな。 俺はウセルをしみじみとした想いで眺めた。 ……身長を越されるのも、時間の問題かなぁ。 「あ、そうだ」 俺はふと思いついて、手を打った。 「どうなされた? 母上」 「ウセル、お前もライオン狩りなんてしちゃうくらいだから、相当腕の力が強くなったんだろうな」 「日々鍛えてはおりますが……それが何か」 「いざ、勝負だ!」 俺はそう言うなり、ウセルの手をガシッと掴んだ。 いくら腕っぷしが強くなったとは言え、ウセルは俺の世界で言うところの小学六年生だ。いくらなんでも小学生なんかに負けるもんかと思っていたのだが……俺の健闘も空しく、またもや軍配は向こうに上がってしまった。 「……くっ……ぐやじい……」 恨めしげにうめく俺に、ラダメスがはしゃいでしがみついてきた。 「わあ、今のが腕相撲というものですね! 僕もやりたい! ねっ、母上!」 さすがにラダメスには楽勝だったのだけど、何だかそれで一層空しさが増したのはなんでだろうか。 ……はあ。プロテインでも、あればなあ……。 夕方、公務を終えたジャハーンをいつものように出迎えた。 「潤、今戻ったぞ」 「おかえり、ジャハーン。おつかれさん」 今日のジャハーンは何だか上機嫌で、ただいまのキスをするなり、俺をひょいと抱き上げた。 「うわっ、ちょっと」 「さて、水浴でもするか」 「別にいいけど……こら、下ろせって。自分で歩くから」 「良い。このまま抱いて行きたいのだ。大切なわが神子だからな」 鼻歌でも歌い出さんばかりだ。 「何言ってるんだよ、いまさら……何かあったのか?」 「今日、新たな金鉱が見つかったとの報告があってな。たいそう豊かな金山らしい。これもお前のおかげだ」 「はあ? 俺、何もしてませんけど」 「お前が私の側に居るというだけで、神からの恵みがあるのだ」 はあ。いつもながらすごい理屈だな。 でもまあ、いい加減慣れたっつーか諦めたっつーか。 好きなように思わせておけばいいやと思って、俺は何も言わないでおいた。 ……しかしまあ、ずいぶん軽々と運んでくださることで。 こいつのマッチョぶりには、感心を通り越して呆れるくらいだ。ここまでなりたいとは思わないけど、せめてこいつの半分、いや三分の一くらいの筋肉があったらなあ。 思わず恨めしげに引き締まった腕や厚く盛り上がった胸元を見つめてしまう。 「ん? なんだ」 そんな俺の視線に気がついて、ジャハーンが金色の瞳で見つめ返してくる。 「……なあ、ジャハーンってさ、どーやって体鍛えたんだ?」 「王たるもの、幼い頃から武術や狩りをたしなむものだ」 「ライオン狩りとか?」 「そうだ。ライオン狩りは、王子の頃たった一人で挑まねばならない行事だ。追い込むまでは従者達が協力するが、仕留めるのは王の息子の役目」 「ふーん……ライオンは、ちょっと無理かな」 「何だと?」 「別に。あとは? あとは、たとえばどんなことしてたの?」 「やはり、身体の基礎を作るのは武術であろう」 「そーだよなぁ」 はあ、と溜息をついた俺を不思議そうに見つめて、ジャハーンは湯殿で俺を下ろした。 「一体どうしたのだ、潤」 「……べっつにぃ」 俺はつまらなさそうにそう呟いて、さっさと服を脱ぐと、ざっと身体を流して浴槽に入った。 「部隊の練習で、何かあったのか」 「何でもないんだって」 いつも、こうやってごまかすとムキになってしつこく聞いてくるジャハーンだが、今日はそうか、と言っただけだった。 「……そういえば、潤。お前、近頃妙な遊びに凝っているそうだな」 汗を流して、同じように浴槽につかったジャハーンが、最近伸びてきた前髪をかきあげながらそう言った。 「遊び? ああ、腕相撲のことか」 「ウデズモー? まったく、お前は細かい遊びをよく思いつくものだな」 温い水の中で俺の身体を引き寄せて、ジャハーンは低く笑った。 「別に、俺が考えたわけじゃ……あ、そうだ」 俺はくるりと身体を回転させて、ジャハーンの顔を覗き込んだ。 「うん?」 「ジャハーン、勝負しようぜ」 「勝負だと?」 「そう。腕相撲で。ルールは簡単なんだ。こうやって手を組んで、肘を下につけて……」 さすがにジャハーンに勝てるとはこれっぽっちも思わないけれど、この機会に、こいつがどれだけ力持ちなのか見極めてやろう。 説明を終えて、湯殿の側の石のテーブルで俺たちは手を組んだ。 「よーい、はじめって言ったら開始だからな。はじめ、って言ったらだぞ」 「ああ、わかった」 「行くぞ……よーい、はじめっ!」 俺はありったけの力を右腕にかけた。 すると、ジャハーンの腕はかすかな抵抗があった程度で、いともたやすく倒れてしまった。 「おい、コラッ! 真面目にやれよっ」 俺が怒ってそう言うと、ジャハーンは心外だと言わんばかりの表情だ。 「私は至って真面目だぞ」 「嘘つけ。手ぇ抜いただろーがっ」 「手を抜いたりなぞするものか。お前の手を握りつぶさぬように、お前の腕を傷つけぬように、細心の注意を払ったのだぞ」 「へっ……」 ジャハーンは得意そうに胸を張っている。 「どうだ。手を痛めなかったであろうが」 「あ、うん。……って、違う! そーいう遊びじゃないんだって。本気でやらないと駄目なんだぞ。勝負なんだからな!」 「何を言っている。私が全力を出せば、お前の骨を折ってしまうぞ」 「……それは困るけどさ」 「私とて困る。潤を傷つける者は、たとえ己であっても許せぬからな」 真剣な顔でそう言うジャハーンを見ているうちに、何だか俺はすっかり毒気を抜かれてしまった。 力勝負に熱を上げていた自分が、急に馬鹿らしく思えて来たのだ。 ……ま、考えてみれば、もし俺がムキムキになったとしたら、ジャハーンと自分のマッチョ同士の夫婦になっちゃうんだもんな。それこそ俺が恐れていたホモの世界になっちゃうじゃないか。 「……キモっ」 想像すると背筋が震える。 やっぱ、俺はこのままでいいや。筋肉馬鹿はこいつだけで充分。 そう思って、俺はジャハーンの腕にしがみついた。 「なんだ、潤。どうした?」 「べっつにぃ」 じゃれつく俺を、ジャハーンはニヤリと笑って抱き上げた。 「甘えておるのか」 「まーな」 「可愛い奴よ」 そう言って、俺の唇に自分のそれを覆いかぶせてくる。 「んっ……」 そのまま丁寧に歯列を舐められ舌をくすぐられて、俺はとろとろに溶けてしまう。 「ふ……んん……ジャ、ハーン……寝室に、連れてって」 「お前の望むままに」 見つめるその瞳は、鮮やかな黄金色にギラギラと光っている。 野生の獣のような欲情した瞳に射抜かれて、俺は身体中が痺れるような心地がした。 いつになく燃え上がった俺達は、そのまま明け方まで愛し合ったのだった。 ……そう。一見そんなに筋肉がついてないようでも、俺もかなり体力は増したのだ。 この絶倫男に、最後までつき合うことができるようになったのだから。 なんて、自慢にもならないけどさ。 ちなみに自分の名誉の為に言っておくと、ピピとアマシスには大差をつけて勝利した。 だけどこの日限り、俺は腕相撲には興味を失ってしまった。 俺の‘男の肉体美’に対する憧れは、とりあえず目の前の男によって満たされているのだった。 |