記憶の中で、彼はいつも怒っていた。
 その黒い両目は憤りにキラキラと輝き、褐色の肌は僅かに上気し、引き締まった口元はいつも悔しげに噛み締められているか、何かを声高に叫んでいた。
 しかし彼がどんなに怒っていても、サーリヤは彼を恐ろしいと思うことはなかった。
 それどころか、小さな畑で薬草の手入れをしながら彼の怒りの言葉に耳を傾け、何度も頷いては、彼を優しく見つめ返した。彼が憤っているのはサーリヤに対してではなく、己を取り巻く環境についてなのだ。今自分の居る世界がどれだけ理不尽で、どれだけ無意味なものか。周囲の大人たちのどれだけ無能で、どれだけ性根が腐っていることか。
 それをサーリヤに向かって激しく訴え、サーリヤはただそれを静かに受け止めた。
 人と争うのが苦手で、誰かに向かって大声を上げたこともないサーリヤにとっては、彼のその激しさがまばゆく感じられたものだった。それは彼の魂の強さの証明のようで、炎にも似たその様を見ていると、まるで煌びやかな歌劇を観ているかのような心地にすらなった。
 怒っている彼は、とても美しかった。
 彼は一通り激し終えると、少し満足したように溜息をつき、「ではまたな」と言って去っていった。
 そうして次の日もサーリヤの薬草畑にやって来ては、時に静かに、時に荒々しく怒りを放つのだ。
 きちんと記憶をたどれば、彼が笑っていた時もあったように思う。淋しげに見える時もあったし、ひどく落ち込んでいる時もあった筈だ。
 しかし、初めて会った時の印象が強いせいだろうか。サーリヤの心に残っている彼の表情は、いつも怒りに染まっていた。
 サーリヤと彼が初めて出会ったのは、町の雑踏の中でだった。
 サーリヤが14歳の時だった。
 町を急いで歩いていて、後ろから肩を掴まれて振り返ると、そこに彼が立っていた。
 何だかひどく怒っているような顔で、サーリヤに何かを差し出していた。
 サーリヤはとても驚いたのを覚えている。
 彼が差し出したのはサーリヤの財布で、落としたそれを拾ってくれたのだろうと思われた。しかしこの荒々しい町で、他人が落とした財布を拾って渡してやるなんていうのは、奇跡にも近いような出来事だったからだ。
 それに、彼はあちこち怪我だらけだった。
 ひと目で喧嘩の後だとわかるような傷つき方だった。
 サーリヤはしどろもどろお礼を言うと、彼に手当てをさせてくれるよう頼んだ。
 自分でも何故そんなことを言い出したのか、よくわからなかった。
 でも彼は自分と同じくらいか、それよりも少し下の年頃に見えたし、何だか放っておけないような気がしたのだ。
 自分は薬師になる勉強をしていて、今から畑に薬草の世話をしに行くところだから、もしそこまでついてきてくれるならば薬草を使って治療ができる。けっこういい薬草を栽培しているから、傷もすぐに治る筈だ。
 口下手なサーリヤが一所懸命にそう言うと、彼はあっさりと頷いて一緒についてきた。
 そして薬草を煎じているサーリヤの隣で、独り言のように怒りの言葉を紡ぎはじめたのだった。別にサーリヤに聞かせる為ではなかったのだろう。喧嘩の興奮も手伝ってか、口にせずには居られないといった様子だった。
 だけどサーリヤが言葉のひとつひとつに頷いて聞き入っているのに気がつくと、今度はサーリヤの目を見て話し始めた。
 サーリヤは、何か理不尽なことが起きると、怒りを覚えるよりも悲しくなってしまう性質なので、彼の感情の荒々しさを目の前にしていると、まるで面白いお話を聞いているような気持ちになったものだ。
 彼もサーリヤの何が気に入ったものか、それから毎日畑に顔を出すようになった。
 あるいは、ただ高ぶった感情の捌け口を求めていただけなのかもしれない。
 彼はひと月程の間、毎日畑にやってきては、サーリヤに向かって色んなことを話し、そして帰って行った。サーリヤは薬師としての修行に励みながらも、いつしか彼がやってくるのを心待ちにするようになっていた。
 そしてある日、サーリヤがどれだけ待っても彼はやってこなかった。
 それから二度と、彼は現れなかった。


 薬草に水をかけて回りながら、サーリヤはそんな昔の出来事を思い出していた。
 彼にもう会うことはないのだと、そうわかった日の夜、サーリヤは泣きながら眠ったのだ。
 名前すらお互いに語らなかった。こんなに早く別れが来るとわかっていたら、もっと色んな話をすれば良かった……せめて名前くらい聞いておけばよかった。泣きながらそう思ったが、それも全て遅い後悔だった。
 そこまで思って、サーリヤは小さく笑った。
 一体今日はどうしたというのだろう。
 何だかひどく感傷的になっている。おかしなものだ。
 サーリヤが今居る薬草畑は、あの頃のものではなかった。
 サーリヤはもう18歳になって、きちんとした薬師として住み込みで王宮に仕えているのだ。といっても、下っ端の召使たちの病気を診て、あとは小さな内庭にある薬草畑の世話をするのが仕事で、住居も王宮の外れの小ぢんまりとした宿舎だった。
 何しろ王宮は広かった。偉大なる王が住まう黄金と大理石の宮殿の他に、王の后達の住む後宮、僧達の暮らす寺院、そして王宮に仕える役人や小姓達の住まい、いくつもの広々とした庭……まるで王宮自体がひとつの町のようだった。
 サーリヤは鼻の頭に浮かんだ汗を拭うと、空を仰ぎ見た。
 薄曇りの空だった。朝から蒸すような暑さで、頭に巻いたターバンさえ鬱陶しい。
「サーリヤ」
 背後から声をかけられて、サーリヤは空の桶を手にしたまま振り返った。
 庭に面した廊下に、同僚であり先輩でもあるタリーフが立っていた。
「薬草の手入れは終わったのか?」
 ぼんやりしたのを責められたのだと思って、サーリヤは慌てて桶を下に下ろした。
「今終わったところです。遅くなってすみません」
「いや、終わったのならいいんだ。それよりも、お前を呼びに来たんだよ」
「……ワッハーブ様ですか?」
 上司である薬師頭に呼びつけられたのかと思った。
「いや、違う。ムハンナド様だ」
「えっ?」
 サーリヤは聞き間違えたかと思って、タリーフの顔を見つめた。
「俺にもよくわからんが……とにかく急ぐように、とのことだ。お前、何かしたのか?」
 問われて、サーリヤは首を横に振った。
 ムハンナドは、王宮に働く者達を統括する侍従長の補佐を務めている役人だった。もちろん貴族出身で、サーリヤ達下っ端の薬師にとっては雲の上の存在だ。そのムハンナドが、自分を呼んでいるという。
 一体何故?
 正体の見えない不安が突如胸に押し寄せて、サーリヤは思わず胸元に手をやった。
「……わかりました。それでは今からムハンナド様のところへ伺います」
「ああ。その方がいい」
「伝えてくださってありがとうございました、タリーフさん」
 頷くタリーフに背を向けて、サーリヤは小走りに薬草畑を後にした。

 侍従長補佐であるムハンナドの執務室は、隣の大きな宮の中央にある。
 そこまでの長い道のりを、サーリヤは全身全霊で以って注意を払いつつ急いだ。
 廻廊を渡ってこちらの宮まで来ると、それだけで室内の空気が違う。ここは高級役人が多数出入りしている場所なのだ。そんなところで足音を立てて走るような無礼な真似はできない。だが出来る限り急がねばならない。
 そのジレンマに焦りを感じながら、ようやく目的地である重厚な造りの扉の前までやって来た。
 深呼吸をして息を整えると、サーリヤは出来る限りの品の良い声で部屋の中に呼びかけた。
「失礼致します。サーリヤ・アスィーム・イブラーヒームでございます。お召しに預かりまして、只今参りました」
「入りなさい」
「はい。ありがとうございます」
 サーリヤは声に促されるまま入室し、その場に平伏して最敬礼をした。
「サーリヤ・アスィーム、そのように恐れて縮こまる必要はない。顔を上げて、楽にしなさい」
「は、はい」
 どうやら叱責の為の呼び出しではなかったようだ。
 穏やかなその声にホッとして、サーリヤは目線だけは礼儀正しく下を向いたまま、身体を起こした。
「……この者に相違はございませんか?」
 ムハンナドが誰かに向けて話し掛けているのが聞こえる。
 部屋の奥に誰かが座っているようだ。その誰かが動く気配がして、小声で何かやり取りがあった後、その人が部屋を出て行く音がした。
「サーリヤ・アスィーム」
「はいっ」
「今日この時より、君には職場を移ってもらう。これから自室に戻って荷物をまとめなさい。すぐに迎えの者が行くだろう」
「え……な、なんですって?」
 サーリヤは思わず目を丸くして、ムハンナドを見上げてしまった。
 ムハンナドは口元の髭に手で触れて、じっとサーリヤを見つめ返してきた。
「ふむ……なるほど、君がサーリヤか」
「え、あの……職場を移るというのは、どういうことでしょうか? わたくしは何か失礼でも……」
「いや、そういうことではないから安心しなさい。君の薬師としての腕を買って、是非雇いたいとおっしゃる方がいらしたのだよ」
「え? まさか、そんな……一体それはどなたなのでしょうか?」
 サーリヤは驚いた。
 それもその筈、王宮に勤め始めて、僅か二ヶ月と少ししか経っていないのだ。一体それで、いつ仕事振りを認められる機会などあろう。たいした患者などまだ受け持っていないというのに……。
「まあ、そうだな。君も誰のもとで働くのかわからないのでは不安だろう。だが、くれぐれも迎えの者が来るまでその人の名前を口にしてはならない」
「は、はい」
「君の新しい主人の名前は……アクラム・アル・ハイユというお方だ」
 アクラム・アル・ハイユ……サーリヤは口の中でその名前を呟いた。‘無限の命を持つ者・アクラム’……そんな立派な敬称を持っている人だとは。さぞや偉大な功績のある人物なのだろうが、サーリヤにはその名前に心当たりがなかった。
 あるいは本名を聞けば正体が知れるかもしれなかったが、ムハンナドはそれ以上のことを明かすつもりはないようだ。
 少なく見積もっても40代以上の権力ある人物だとは思うのだが、しかし一体何故その人に請われたのだろうか。
 サーリヤは釈然としなかったが、ムハンナドに促されて仕方なく退室し、自分の部屋へと向かったのだった。