サーリヤを迎えに来たのは、カシームという男性だった。
 年の頃は30台後半から40代半ばといったところだろうか。人品卑しからぬ人物といった雰囲気で、サーリヤはやや圧倒されてしまった。このように品のある男性を手足のように使うとは、やはり新しい雇い主というのは相当の権威ある人物なのだろう。
 にわかに緊張が高まった心地で、カシームに導かれるまま駱駝の背に乗り王宮を後にした。
 わざわざ駱駝を使って行くのだから目的地はどれほど遠いのだろうかと思っていたが、太陽がわずかに移動する程の時間で到着したようだった。
 それはとても大きな建物で、堅固な塀に囲まれており、入り口には護衛の兵士まで立っていた。
「さあ、こちらでございます」
 サーリヤを時折振り返りながら、カシームはするすると奥に進んでいった。
 奥へ行くに従って、いよいよ室内の造りは豪奢になってゆく。初めて目にする美しい装飾の数々に、サーリヤは目がくらむような思いだった。
 ……一体、何処までゆくのだろうか。
 サーリヤは怖気づく自分を感じていた。
 地位も経験もない一介の薬師が踏み入れるには、あまりにも美しい場所だった。
 しかし、きっとこの奥に主人が居るのだろう。
 主人に挨拶をした後は、下働きの者達と同じ場所へ連れて行かれることになる筈だ。そう思って、サーリヤは脂汗のにじんだ手を握り締めた。
 しかし、カシームが「こちらです」と言って立ち止まった場所は、主人の居室には見えない部屋だった。ましてや、応接室といった雰囲気でもない。
 そこは広々とした中庭に面した小部屋だった。中庭を走る渡り廻廊がそこから伸びている。
「こ、ここですか?」
 その廻廊からアクラム・アル・ハイユが来るのかとも思ったが、廻廊から一人の女性が現れてサーリヤに手招きをした。
「え……」
「どうぞこちらへ、薬師どの」
 サーリヤは戸惑った。
 声の調子からすると女性は若くはないようだったが、控えめながら美しく着飾っており、どう見ても侍女の類には見えなかった。おそらく彼女はここの主人の奥方達に仕える者だろう。ということは、この廻廊の先は奥方達の住処に違いない。
「あ、あの……ですが僕、いえわたくしは……」
 ベールから除く目元が僅かにしかめられた。
「どうぞお急ぎください。夜まで間がありませぬゆえ」
「は、はい」
 サーリヤに拒否する権利はないようだった。大人しく彼女について廻廊に足を踏み入れたが、サーリヤは恐ろしさのあまり卒倒しそうだった。
 もしや、奥方の浮気相手として目をつけられたのではないだろうか。サーリヤは自分に男として魅力があるとはとても思えなかったが、なにしろ自分は若い。それに薬師は奥へ連れ込むにはうってつけの役どころだ。サーリヤはもともと体毛が薄い為に髭を生やしていなかったので、いざという時は女装でもさせて主人の目を眩ませることができるだろう。
 夜、主人が奥へ来る前にサーリヤの品定めをしようというのだろうか……職場の先輩達に聞いた体験談が、まるで悪夢のようにサーリヤの脳裏に甦った。
 花々が咲き乱れる中庭の先に、瀟洒な造りのこぢんまりとした宮があった。
 沈香や竜唾香の悩ましげな香りが漂ってくる。
 しかしその宮にはまったくと言って良いほど人気がなかった。
「あの……わたくしをお召しいただいた方は」
「旦那様は夜お出でになります。それまでに、仕度をしていただかなくては」
「仕度?」
「そのような格好で、旦那様にお目通りなさるおつもりですか」
 呆れたように言われて、サーリヤはハッとして自分の身なりを確認した。
 衣服は少々擦り切れているし、先ほどの庭園の手入れで汗もかいている。高貴な人物に謁見を願い出るには、いささか小汚いように思えた。
「あ……そ、そうですね」
「新しいご衣裳も用意してございますので、まずは沐浴を」
 サーリヤは言われるままに浴室へ行き、沐浴をして汗を流した。
 ……しかし、一体何故このような小宮に通されたのだろうか。沐浴をするだけなら、使用人達のもう少し簡素な浴室があるだろうに……釈然としない気持ちのまま沐浴を済ませ、用意された衣装に袖を通した。
 それは光沢のあるシルクで織られており、肌に心地良かった。もちろんシルクなどという高級品を身にまとうのは、初めてのことである。
 ターバンは用意されていなかったので、仕方なく背中まで伸びた髪を布で縛った。
 着替えを済ませて浴室を出ると、窓から夕暮れに染まった空が見えた。
 剣のように細い三日月が、ぼんやりと浮かんでいる。
 その頼りなげな月に不安を煽られて、サーリヤは溜息をついた。
 のろのろとした足取りで部屋に戻ると、そこには誰の姿もなかった。
 ただ芳しい香の香りだけが部屋を満たしている。
 早くも灯されたランプの灯りが、ゆらゆらと揺れていた。
 これから一体どうすれば良いのだろうか。また誰かが迎えに来るまで待つのだろうか?
 ぼんやりとそこに立ち尽くしていたが、ふいに人の気配を感じて振り返る。
 暮れ始めた空を背負うように、そこには一人の男が立っていた。
 サーリヤははっと息を飲んだ。
 それは二十歳をいくつか出たくらいの、若い男だった。
 ランプの灯を反射して、黒い瞳がきらりと光った。
 腕を組んだまま柱にもたれているが、全身から覇気のようなものが立ち上っている気がした。
 軍人には見えないが、さりとて文官にも宗教家にも商人にも見えなかった。
「あ……あなたは?」
 サーリヤがそう尋ねると、男はフンと鼻で笑ってこちらへ歩いてきた。
「サーリヤ・アスィーム・イブラーヒームか」
「は、はい。サーリヤはわたくしですが」
「俺の名はアクラム・イブン・アル・マリク・シャムスッディーン・アール・ハリーファ」
 低い声でそう告げられて、サーリヤは唖然としてその男を見つめ、それからはじかれたようにその場に平伏した。
「し、失礼致しました……殿下」
 何故気がつかなかったのだろう。
 サーリヤは己の頭の鈍さに歯噛みしたい思いだった。
 イブン・アル・マリク……王の息子。
 ‘無限の命を持つ者、アクラム’……その名前を持つ人といえば、王室でたった二人の王子のうちの一人、アクラム・イブン・アル・マリクに決まっているではないか。
 当初第四王子という立場から、王位継承から最も遠い存在と思われていたのだが、四年前大流行した悪魔の病で第一王子と第二王子が崩御し、かろうじて生き延びた第三王子も脳に障害を残して寝たきりになってしまった。そこで急きょ第四王子であるアクラムが王位継承者として王に認められたのであった。
 その生命力と病から逃れた奇跡をたたえて、王から‘アクラム・アル・ハイユ’の名を授けられたというのは、有名な話ではないか……しかしまさかそのアクラム王子が己を召抱えようと思うだなんて、一体誰が想像しただろうか?
 雲の上の存在どころではない。何気なくモスクにおまいりをして、天使の姿を垣間見たような心地だ。
 恐れ多くて、目が瞑れそうだった。
「顔を上げよ」
 だからそう言われたとしても、とても王子の顔を見上げる勇気などなかった。
 おそるおそる体を起こして、その足元だけを食い入るように見つめていた。
 そのすらりと伸びた足が近付いてきて、サーリヤの上に影を落とした。
 がっしりとしているが、ささくれひとつない手に顎を掴まれて、強引に上を向かせられる。
 黒々とした両目がきつく見下ろしてくる。
 その宝石のような瞳に射抜かれて、サーリヤは息を殺した。
 美しい顔だちである。一体どれほどの美姫を母に持ったのだろうか、整った繊細な面立ちはしかし、その鋭い眼光が内部に凶暴なものを抱えていると語っているようだった。
 見つめられると、己の内の全てを白日のもとにさらけ出されるような、そんな感覚さえ覚える。
 かすかに喘ぐような声をもらして、サーリヤは苦しさに顔をしかめた。
 するとアクラム王子は小さく舌打ちをして、サーリヤの顎を乱暴に放した。
 その場にうずくまるサーリヤに、追いうちをかけるように低い声で言い放った。
「……脱げ、サーリヤ」