目が覚めた時、サーリヤは自分がまだ夢の中にいるのだと思った。
 頭上に広がるのは、絵に描かれた夜空の星……宝石か水晶でも嵌めこんでいるのか、ちかちかと輝いている。薄布ごしに身体を包む朝の日差し……柔らかな寝具に残る芳しい残り香……にぎやかな鳥達の歌い声。
 しかし、どんよりと重いだるさを腰に感じて、サーリヤはハッと意識を覚醒させた。
 ここは何処だっただろうか?
 明るい日差しのもとで見ると、さらに豪奢で優雅な室内……そう、ここはアクラム・アル・ハイユの屋敷ではないか。
 飛び起きて薄布をめくると、裸足のまま絨毯の上へ下りた。
 そこで、己の下肢から流れ出る液体に気がつき、慌てふためいて再び臥所の上へ舞い戻る。
 何てこと……自分は素裸ではないか。こんな有り様を誰かに見られでもしたら……いや、そんなことよりも昨夜自分は……。
 己のあさましい痴態を思い出して、サーリヤは顔から火が出るのではないかと思った。アクラム王子はもとより、ここに仕える者たちにも自分のあられもない声が聞こえてしまったのではないか……そう考えると、今すぐにでも消え去りたい思いだった。
 そう……自分はここを去らなければ。
 王子の一夜の戯れは済んだのだから、自分がいつまでもここに居座るのはあつかましいというもの。せめて何か身につけるものを探して、すぐにでも王宮へ戻るとしよう。きっとムハンナドにも話は伝わっていようから、何も言わずに仕事に戻らせてもらえる筈だ……そう思って、サーリヤは白い綿の布で自分の身体を拭うと、そっと隣の部屋を覗いた。昨夜自分が衣装を脱ぎ捨てた場所に、目的のものがあった。しかしそれは昨夜と同じものではなく、黄味がかった白いシルクで織られたもので、綺麗に畳まれてすぐ側の飾り棚の上に置かれてあった。
 サーリヤはどうしようか迷ったが、とりあえずそれを拝借することにした。王子が身につけるにしては装飾が少なすぎるような気がするし、ここにあるということは自分に用意されたものと判断しても良いのではないかと思ったからだ。果たしてそれは、あつらえたかのようにサーリヤの身体にしっくりとなじんだ。
 しかし肝心のターバンが見当たらなかった。
 ターバンなしで外を出歩くのは、成人男性として少々憚られた。
 どうするべきかと唸っているところへ、昨日サーリヤをここへ案内した女が姿を現した。
「お目覚めでございますか」
 それは、サーリヤが衣服を身に着けるのを待っていたかのような間合いだった。
「あ……貴女は、昨日の」
「はい。お目覚めであれば、まずは沐浴をとの仰せでございます。浴室の場所はお分かりでございますね」
「は、はい。ですが、僕は……わたくしは王宮に戻らねばなりません。仕事もございますし……」
 しかし女は、サーリヤの言葉に対して首を横に振った。
「貴方さまが今なされるべきことは、旦那様の仰せ付け通りに沐浴をし、お食事をお召しになることでございます。お一人では困難なようでしたら、わたくしどもがお手伝い申し上げますが」
 そう言われて、サーリヤはハッとして俯いた。
 女は、昨晩の房事の後始末のことを言っているのだ。サーリヤが男相手の性交は初めてで、その後処理が一人で出来ないようなら手伝うと……まさかそんなことをさせられる筈がない。相手は女性である。声の感じや物腰からすると、自分とは母と子ほども歳が離れているようだが……しかしそれでも敬虔なイスラム教徒である一庶民のサーリヤにとって、女性との肌の触れ合いは禁忌だった。
「いえ、それには及びません。自分で致します」
 そうきっぱりと告げると、女は深く頭を下げた。
「それではそのように。浴室には新しいご衣裳が用意してございます。お済みになりましたらこちらへお戻りくださいませ」
 今新しいものを着たばかりだというのに、また次の衣服を下ろすのか……と、サーリヤは戸惑いながらも、ここは言われるままにするのが良かろうと、神妙に頷いた。
 浴室に赴けば、浴槽には摘みたてと思しきジャスミンの白い花が浮かべられ、ふくいくとした香りを放っていた。昨日は混乱していてよく分からなかったが、床には斑の大理石が嵌めこまれており、浴槽には象牙の装飾がなされていた。まるで何処かの王侯貴族のようだと思い、アクラムはれっきとした世継ぎの王子なのだと思い直して、サーリヤは溜息をついた。
 まったく何という別世界であろう。まるでかの有名なシャーリャル王の愛妾が語る夜伽の物語のようではないか。
 いかなる神の悪戯か、このような別天地を垣間見る日が来ようとは。
 しかしそれもひとときの幻。
 良い夢を見たと思って、未練など残さずに早く自分の生活へ戻ろう。
 サーリヤはそう思って、高価な石鹸を使うことなく丁寧に身体を洗い、用意された衣装に袖を通したのだった。

 さっぱりとして元の部屋へ戻ると、ペルシア絨毯の上にさらに美しい模様の敷き布が敷かれ、その上には見たこともないようなご馳走がふんだんに用意してあった。
 香辛料をふんだんに使った鶏の丸焼き、米を野菜と肉汁と共に炊いた料理、見たこともないような魚の煮物、揚げ物、生地を幾層にも重ねて焼き上げた小麦の料理、蜂蜜のかかった焼き菓子、砂糖で煮た珍しい果物、それから新鮮な無花果、石榴、葡萄、棗……見ているだけで空腹を刺激され、口の中が唾でいっぱいになった。
 先ほどの女がサーリヤに座るよう促すやいなや、少年と言っていい年齢の男奴隷達が何処からともなく現れ、サーリヤに恭しく給仕をはじめた。
 しかしそのもてなしように、サーリヤはかえって萎縮してしまい、ろくに料理を口にせぬうちに水で手を洗った。
「もうお召し上がりには……お口に合いませぬか?」
 そう尋ねる女に、サーリヤは首を振る。
「いいえ、あまりの豪華な食事に、胃袋が驚いてしまったようです」
 正直にそう言うと、女は奴隷達に目配せをして、料理を片付けさせた。
 その後用意されたのは、彩りも香りも美しい花茶……ゾホラートと蜂蜜や様々な果物である。
 まがりなりにも薬師であるサーリヤは、その花茶の組み合わせの妙に目を見張った。どれも高価な薬花ばかりで、胃を静め心を安らかにする作用があるものである。
「水煙草をお使いになりますか?」
「い、いえ、煙草はのみませんので」
「さようでございますか」
 サーリヤは花茶を一口啜った。
「ところで……わたくしはいつこちらを辞すれば良いのでしょうか」
「旦那様の仰せでは、しばらくお持て成しせよとのことでございます。それ以上のことは、わたくしにはわかりかねます」
「しばらくとは……」
「旦那様のお気が済むまででございましょう」
 女は飽くまで淡々とした口調である。何か含むところでもあるのかと勘ぐりたくなったが、ただ単にそれが屋敷に仕えるものの礼儀作法というものなのかもしれない。
「申し送れましたが、わたくしはジャミーラと申します。当面の間サーリヤ様のお世話をさせていただきます。何か不自由がございましたら何なりと仰せ付けくださいませ」
 ジャミーラと名乗った女はそう言うと、その場に平伏した。
 サーリヤは心の中でうろたえた。
 昨夜限りのことと思っていたのに、しばらくここへ滞在せよとは……一体かの王子殿下はどのような気紛れを起こしたのだろうか。自分に王子を満足させるような閨技があるわけでもなし、男を虜にするような美貌があるわけでもなし……物珍しさに触手を伸ばしたにしても、せいぜい一夜が限度ではないだろうか。
 しかしここで逆らってみても始まらない。高貴な人物の前では、金も権力もない一庶民の意思など塵に等しいのである。
 サーリヤは諦めて花茶の椀を傾けてから、ジャミーラに自分の持ってきた荷物を運んでくれるよう頼んだのだった。