アクラム・アル・ハイユ王子がサーリヤの元を訪れたのは、昨日と同じ頃だった。
 紅色から紫藍に染まる夕暮れに、外気をまとって静かにこの離れ宮へと現れた。
 二晩続けて王子が通ってくるものとは思わなかったので、サーリヤは驚きながらもその場に平伏して王子を迎えた。
 そのままの姿勢で、ジャミーラから教わった挨拶を口にしようとすると、アクラムに低い声で止められた。
「そのようなことをせずとも良い。面を上げよ」
 言われるまま身体を起こすと、アクラムは絨毯の上の羽毛の小枕に身体を委ねて座っていた。
「今日は何をしておったのだ」
 そう問われて、自分の持ってきた仕事道具を整理したことを告げる。それから、いくつか薬草の苗を持ってきたのだが、このままだと枯れてしまうので、僅かで良いから少し庭を借りることは出来ないかと尋ねてみた。
 するとアクラムは鷹揚に頷いた。
「では中庭を使うと良い。そなたがここに来る際に通った場所とは、反対側にある。小さな庭だが、そこはそなたの好きにして良い」
 そう言うと、またもやいつの間にか用意されてあった葡萄酒を軽く口に含む。
 サーリヤはただそれをぼんやりと見つめた。
 もとより口数の多い方ではない。自分が話すよりも他人の話を聞いている方が好きな性質だ。話術でその場を湧かせるような才があるわけでもなし……それにしても王子は食事はしないのであろうかと、酒ばかり口にするアクラムを眺めていた。そういえば昨夜も食事を採らなかった。自分は緊張と混乱で空腹を覚えるどころではなかったが、今夜はどうするのだろうか。
 アクラムがこちらをちらりと見て、微かに眉を上げた。
「何だ」
「え……」
「何か言いたげではないか。気にせずとも良い、申してみよ」
「あ……いえ、たいしたことでは……」
「かまわぬ。申せ」
「その……殿下はもうお食事はお済みになったのですか?」
 意外な問いであったのか、アクラムは表情の読みにくい瞳を僅かに見開いた。
「そなたはどうなのだ」
「わたくしはまだ済ませておりません」
「では腹が空いたであろう。それならば早う申せば良いものを」
 そう言ってアクラムが手を叩くと、ただちに果物や魚の干物などが運ばれてきた。
「あ、いえ、そのようなつもりで申したのでは……」
「俺も腹が空いているのだ」
「さようでしたか……」
 サーリヤはほんの少し決まりの悪さを覚えて俯いた。食事を催促するなどはしたないことだ。しかし、この屋敷の主人である王子が空腹を我慢するなど、おかしなものだなと思いながら。
 ややあって暖かなスープや肉料理が運ばれてくると、アクラムは軽く横たえていた身体を起こした。
「給仕は良い。下がれ」
 料理を運んできた奴隷達をそう言って下がらせると、サーリヤに視線を寄越した。
「サーリヤ。手をつけて良いぞ」
「は、はい」
 またもや食欲が失せそうな気がしたが、サーリヤは慌てて目の前の皿に手を伸ばした。羊の肉団子を取ってとりあえず齧る。クミンの風味が効いていてさすがに美味だった。
 アクラムはサーリヤの背後に目をやると、僅かに眉をしかめた。
「ジャミーラ、そなたも下がれ」
 しかしジャミーラはその場に平伏するものの、部屋を去る様子はなかった。
「何をしておる。下がれと申したのだ」
「恐れながら、偉大なる旦那様に申し上げます。離れ宮の御方は薬師にて在らせられますれば、わたくしはお側にて控えさせていただくのがよろしいかと」
 サーリヤは彼女が意味するところがわからなかったが、アクラムはその言葉を聞くなり手元にあったスープを器ごとジャミーラに投げつけた。
「サーリヤが俺に毒を盛るとでも申すつもりか。卑しい勘ぐりなどせずとも良いわ、下がりおれ!」
 それは初めて見る王子の激昂だった。
 飽くまで低く静かな叱責だったが、王子の気性の激しさを垣間見たような気がして、サーリヤの肝が冷えた。
「ご無礼を申し上げました。お許しくださりませ」
 ジャミーラは額を床にこすりつけると、音も立てずにその場を去っていった。
 サーリヤはただポカンとして、冷たく燃える王子の瞳を見つめていた。
 アクラムは何事もなかったかのように小魚の揚げ物を手にすると、口に運んで咀嚼した。
 サーリヤも我に返ると、手に持っていた肉団子を全て口に収めた。
 しかし小麦で練り上げたそれは一口で食べ切るには大きすぎたようで、飲み込もうとするなり喉に詰まってしまった。慌てふためくサーリヤの腕を掴むと、アクラムは口元に葡萄酒の盃を宛がってきた。サーリヤは必死の思いでそれを飲み下す。香り高い渋みが舌を差す、美酒であった。
 サーリヤの顎を伝う赤い雫を舌で舐め取り、アクラムは鋭い眼差しで腕の中の薬師を射抜いた。
「食事は後だ」
 そう低く言うなり、サーリヤの身体を抱きかかえて臥所へ向かった。
 驚いたのはサーリヤである。早足で歩くアクラムに、振り落とされないよう必死でしがみついた。
 それにしても、後も何も、食事はたった今始めたばかりではないか。自分はともかく、王子は空腹ではないのだろうか。そんな疑問も、寝台に降ろされて唇を奪われてしまえば霞と消えてしまう。
 それから王子はサーリヤの手を取って、指に残った肉団子の欠片を全て嘗め尽くした。そんな犬のような仕草に、不思議と妖しさを覚えてサーリヤは身震いをする。昨夜、朦朧とした意識の中でも、その舌がどれ程の快楽を己に与えてくれたか知っているのだ。指の隙間にその温かな舌が蠢くだけで、知らずのうちに吐息が漏れ出た。
 するとその吐息を食らわんとばかりに、アクラムの唇が再びサーリヤのそれを覆いつくす。
 強引で悪戯なその舌に誘われて、サーリヤがおずおずとアクラムの口中に舌を伸ばせば、たちまち絡み取られて翻弄される。やっと解放されて荒い息のままアクラムを見上げると、強い煌きを放つ黒金剛石の瞳の中に、見知らぬ己の姿があった。しどけない格好の、今にも泣きそうな顔をした自分。覆い被さってくる熱い身体を抱きしめて目を閉じる。その端から涙が一筋流れ落ちるのを感じた。
 あとは全て夢の世界である。
 甘美な陶酔の荒波にさらわれて、気の遠くなるような嵐の中、ただ必死に目の前の男に縋るのみ。
 それはほんの一瞬の出来事であったのだろうか。それとも一晩中続いたのであろうか。
 やがて全てが闇に溶けるまで、ただ目に映っていたのは王子のきつい眼差しだけであった。