正午にはまだ間があるとはいえ、アラブの王国の日差しは強い。
 小さな薬草畑の手入れを終えると、サーリヤは汗を拭いながら宮の庇の下へと戻った。
 ここに来てからターバンが用意されたことはないので、仕方なく日光から頭を守る為に女性のようにベールで覆っている。それを脱ぎさって浴室に足を向けると、そこはいつものように用意が整えられていた。
 汗を流して浴槽に身体を沈めると、石膏で化粧漆喰が施された壁に、自分の顔がぼんやりと映った。
 ここに来てから10日程経っただろうか。
 薬草畑の手入れと言っても、ごく小さなものなのですぐに終わってしまうし、ベールを被っているせいで直接陽の光に触れることもない。それにジャミーラが毎日のように肌を白くするという軟膏を塗るよう勧めるので、早くも自分の肌の色が薄くなって来たような気がした。貴族や王族の中には肌の白い女性も居ると聞いたが、まさか自分までそうはなりはすまいなと、サーリヤは何となく不安な気持ちになる。肌の色が黒すぎるよりは、いささかなりとも白い方が男としても魅力的だとわかってはいるのだが……何しろそれは懐の暖かさを示す測りだから……しかし日焼けが薄くなればなるほど、自分の日常から離れていくようで、心もとなさを覚えるのだ。
 サーリヤには未だに、何故アクラムが自分に寵を示すのかがわからなかった。
 アクラムは毎晩のようにこの離れ宮を訪れては、特に何かを語るでもなく、サーリヤの身体を抱いて朝になる前には帰ってゆく。突然連れてこられたので、いつ急に屋敷を出ることになるか想像もつかない。
 ジャミーラは王子の気の済むまでと言っていたが……まるで毎日が、落とし穴を仕掛けてある道を歩むような心地だった。
 サーリヤとて、あの目の眩むような快感に執着を覚えぬわけでもない。
 美しく猛々しい若き王子に身体を愛でられて、気がつけば夜が来るのを待ち遠しく思っている己が居るのも確かだった。しかし自分は男である……本来ならば王子の姿を垣間見ることすらない筈だった、砂漠の中の一粒の砂のごとき存在。そんな自分が、アクラムに思慕を寄せたところで何になろう。
 それよりも一刻も早く本来の現実に戻って、己の日常を取り戻し、良い妻を娶って家庭を築いた方が自分の為になると思った。いつかその日が来るのなら、一日とて早い方が良いに違いない。
 そう思って、サーリヤは溜息をついた。ふと見れば、いつの間にか身体はすっかりふやけ切っていた。

 しかし、その日の日没頃のことだった。
 焚きしめた香の香りに包まれながらぼんやりと空を眺めていたが、雲のあまりの流れの速さに、心がざわめくのを覚えた。風がひどく強い。空はどんよりと曇っていた。
 こんなに風が吹き荒れて、植え替えたばかりの薬草たちは大丈夫だろうか――。
 そう思うと居てもたっても居られず、サーリヤはジャミーラの止める声も聞かずに中庭に飛び出した。
 ごうごうと悲鳴のような音を立てて吹きすさぶ風の中、サーリヤは小さな薬草畑に覆いをかけた。何度も風に煽られて転びかけながら、ようやくそれを成し遂げたあと、何となく気になって大きな中庭の方にも足を伸ばす。
 それは初めてここに来た時から足を踏み入れていない、あの中庭だった。
 ざっと見ただけだが、ここにもいくつか風に弱い花がありそうだった。ついでと言っては何だが、こちらも処理を施してしまおう。そう思って、離れ宮をぐるりと回ってそちらに足を踏み入れる。
 しかしいくらも行かないうちに、サーリヤの目に異様なものが飛び込んできた。
 それは美しい庭園に不相応な、頑強な鉄の柵だった。
 サーリヤの身の丈の倍はあろうかという高さと、槍のごとき鋭い先端。大の男が渾身の力で体当たりをしても、ぴくりとも動かないであろうと思われた。それがぐるりと離れ宮を囲んでいるのだ。
 一体いつの間にこんなものが造られたのだろうか……いや、それよりもこんな囲いがあるのに、一体どうやって王子はこの離れへ通ってきているのだろうか? それに、サーリヤがここを出るときに、こんな堅固な柵があってはそれはひどく困難になるだろうに……。
 冷たく太い鉄に触れて、その場に呆然と立ち尽くす。
 その背後に、突如雷鳴のごとき怒鳴り声が投げかけられた。
「そこで何をしておる!」
 思わず鉄柵から手を放し咄嗟に振り返ると、荒れる暗い空を背に負って、アクラムが立っていた。
 怒りを浮かべた、烈しい双眸でサーリヤを睨みつけている。
「あ……」
 アクラムは常に強引で無愛想であったが、それと同時にサーリヤの前で冷静さを失うことはなかった。しかし今、かの王子は鬼神のごとく衣服を風にたなびかせ、地響きのような怒りを全身に湛えていた。
「何をしておると聞いておるのだ、サーリヤ」
 アクラムは激しい勢いでサーリヤの腕を掴むと、そのまま捩じり上げた。
 苦痛にサーリヤが悲鳴を漏らしても、アクラムの怒りは収まる様子はない。
「まさかに、ここから逃げ出そうとしておったのではあるまいな!」
 そう低く言い放つなり、サーリヤを抱え上げて離れ宮へ向かった。
 サーリヤの心臓は痛い程跳ね続けている。
 何が何やら訳がわからなかったが、とにかく王子に弁解をしなければと思う。しかし不器用なサーリヤの舌は、こういう時に限って無様にも凍りつき、言葉を成そうとはしてくれなかった。
 アクラムはサーリヤを抱えたまま離れの寝室へと足を進めると、寝台の上に乱暴にサーリヤを投げ捨てた。
 主の怒りを察してか、宮からはすっかり人気が失せていた。
「俺は、自分のものが勝手をするのは許さぬ」
 サーリヤを見下ろすその瞳は、憤りの余り憎しみすら浮かんでいた。
 サーリヤは、この王子に自分が殺されるのではないかと思った程だった。
「サーリヤ、そなたは俺のものだ」
「殿下……わ、わたくしは」
「申し開きは聞かぬ」
 これは一体誰なのだろうか。あの堂々たる男と同じ人間には思えない……まるで小さな子供の癇癪のようだ。
 何故王子はこんなにもお怒りなのだろうか。
 サーリヤは混乱と戸惑いに恐怖を感じたが、下手にあらがうのは却って良くないと思い、アクラムの怒りを受け止めることにした。強い感情に逆らうよりも、それをじっと受け止める方が自分には向いているのだ。
 そう思って、ともすれば悲鳴を上げそうになる自分を押し殺し、ひたすらアクラムに向かって身体を開いた。
 サーリヤに抵抗の意志がないことを察してか、アクラムは徐々に落ち着きを取り戻し、次第にいつもの彼に変わっていった。
 何度か精を吐き出した後、王子はその雄をサーリヤの内に収めたまま、力を抜いて体を横たえた。
 全身に汗をにじませた、若くたくましい男の身体を己の胸に抱きとめて、サーリヤは震える唇から吐息を漏らした。
 そっと両腕を伸ばして、アクラムの背を柔らかく包み込む。
 何故だかそうしたい気持ちだった。
 激情を迸らせた後の彼は、ひどく頼りなげに思えたからだ。
 傷ついたものを前にすれば、それを癒したいと感じる。
 それこそがサーリヤの薬師としての使命であり、己の本性なのだ。
 アクラムは自分に執着しているわけではない。ただ、行き場のない感情の昂ぶりを吐き出す所を求めているだけなのだ。 その場所を与えてやることこそが、サーリヤに出来る唯一の奉仕だった。


 その夜半過ぎの頃。
 サーリヤは喉の渇きを覚えて覚醒した。
 月明かりのない室内は、真の闇に包まれていた。遠くで風が泣く声と、木々がせめぎ合う音が聞こえた。
 重い体で身じろぐと、すぐに温かな人の体に触れた。
 アクラム王子だった。
 サーリヤは驚いて、闇の中で目を見開いた。
 朝起きた時は既に王子の姿がないので、てっきりサーリヤが気をやった後は早々に自らの居室へ戻っているものだと思っていたのだ。それが、今は自分の隣で眠っている。
 これは今宵だけのことなのか……それとも、毎夜のことだったのか。
 起こしてはならないと思って、サーリヤはそのままそこに横たわって息を殺していた。
 嵐の中、アクラムは規則正しい寝息を立てて深く眠っている。
 その音を聞きながら、サーリヤは王子はどんな夢を見ているのだろうかと思った。
 不思議な王子。
 彼は一体何故自分を選んだのであろう。
 何故あの時、あんなにも怒ったのであろう。
 その謎を解く鍵が、王子の見る夢にあるまいかと考えて、サーリヤはじっとアクラムの寝息に耳を澄ませていた。