その次の日から、サーリヤは捕らわれびとになった。
 生活はここに来てからと変わらない。しかしその足首には鉄の足枷がはめられ、細いがけして解けることのない鎖に繋がれていた。
 鎖は長い。足枷がはまっているのは片方だけなので、離れ宮の中を移動するだけならそれほど支障はないように思われた。サーリヤの薬草畑にもかろうじて届く長さだ。
 食事も相変わらず贅を尽くしたものだったし、欲しいものがあれば一言呟くだけですぐに用意される。
 しかし、サーリヤは羽を切られた鳥だった。
 逃げられぬよう足の腱を切られたも同然だった。
 ここに居れば寝食に困ることなどないし、既にサーリヤには自分を心配する家族もない。だからここに閉じ込められていても、それが不運なことだとは思わなかった。
 だがこれは一体いつまで続くのだろうか?
 そう思うと、サーリヤの心は冷たくなっていく。
 まるで出口のわからぬ迷路に迷い込んでしまったようだった。一体いつここから出ることができるのか……それとも出口など元からないのか。
 サーリヤは沐浴をしてから香を焚き、神に祈祷を捧げた。
「全知全能にして偉大なる神よ、わたくしはイブラーヒームの孫にてアスィームの子、サーリヤにどうぞご加護を賜りますよう。わたくしはあなた様のしもべ。たとえこのような状況におけども沐浴をし精進を重ねます。慈悲あまねく慈愛深き神よ、どうぞわたくしをお守りください。ラー・イラーハ・イッラッラーフ。神を心より湛えます。どうぞわたくしにご加護を賜りますよう……」
 長い祈祷をしても心は晴れなかったが、それでも何もせぬよりはマシだった。
 何しろ時間はあり余っているのだ。
 今日は一体どのようにして暇を潰そうか……サーリヤは必死に頭を働かせてあれこれと案を練った。
 物心ついた頃より、薬師である師匠の元で修行を重ねてきたサーリヤである。住み込みで修行をするからには、生家はもちろん豊かではなかった。病弱な母親はサーリヤ一人を産むのがやっとで、家事すらままならなかったし、若い頃の事故がもとで片足を引き摺っていた父親に、寝たきりの妻と何もできない子供を養っていくだけの稼ぎなどない。だから半ば売られるようにして修行に出されたわけだが、この町でそんな話は不幸とも言えなかった。両親はそれからほどなくして亡くなってしまったが、師匠は薬師としても人間としてもよく出来た人物だった。サーリヤを、仕事をしながら一人で生きていけるように育て上げてくれたのだ。
 もちろん修行が苦しくなかった筈はない。暮らしも楽ではなかった。しかしそれでも今まで何とかやってきたのだ。今さら贅沢をしてのんびり暮らせなどと言われても、すんなりと受け入れられるわけがなかった。
 今まで苦労をしてきた自分への、神のご褒美だと思うにしては、サーリヤはあまりにも若すぎた。
 そういうわけで、昼寝をするにも気が咎めて、仕方がないので丹念に薬草畑の手入れをした後は、師匠より譲り受けた書物を書き写してみたり、やりかけだった他国語の勉強をしてみたり、ジャミーラに頼んで道具を取り寄せて、香油を精製したりしていた。急いでやってはまたやることがなくなってしまうので、どれも必要以上に時間をかけてゆっくりと。
 そうこうするうちに、やっと太陽が傾き始めてきた。
 サーリヤはそれを見ると、やれやれ、何とか今日一日が終わろうとしている。そう思ってホッとするのと同時に、心がざわめきはじめるのを感じた。
 またあの美しい王子がやってくる……それとも今宵は他の奥方のところへお出でになるのだろうか。いくら自分が新しい相手だとはいえ、そうそう連日足を運ぶとも思えない。
 手にしていた道具を片付けながら、サーリヤはアクラムが来るのを待っている自分に気がついた。
 王子は心の知れぬお方だ。
 目つきばかり鋭くて、口数も少なく表情も乏しい。一体何を考えているのやら、計り知れぬところがある。
 生来口数の少ないサーリヤは、会話が少ないことに不満を覚えることはまったくなかったけれど、それでもさすがに戸惑いを覚えた。さりとてこちらを無視しているわけではなく、サーリヤが何か話し掛ければ言葉少なに答えてくれるし、召使達への指示などはきちんとしている。
 王子は一体自分に何を求めているのか。
 戸惑いは増すばかりである。
 だから昨夜のことがあって、実はサーリヤは少し安心したのだ。
 声を荒げて怒りをあらわにするアクラムは恐ろしかったけれど、何だか彼も同じ人間なのだと感じられたからだ。
 何を考えているのかわからぬよりも、たとえ怒りでも、感情を表に出してくれる方がよっぽど良い。
 それに……と、サーリヤは手元の茶に目を落とした。
 香り高い高級茶の椀の中に、自分の顔が映って揺れている。
 サーリヤはその甘い香りを吸い込んでから、紅色の液体を飲み干した。
 ……怒りに染まったアクラムの瞳は、彼に似ていた。

 それからまもなく、いつものように音もなくアクラムは離れ宮にやって来た。
 昨夜の今日であるから、もしかしたらお出でにならぬやもと思っていたサーリヤは、思わず笑みを浮かべてしまった。それからそんな自分に戸惑い、慌てて平伏してアクラムを迎える。
 アクラムは黙ったまま蹲るサーリヤを見下ろしていた。
 常ならすぐに「面を上げよ」と言うところであるが、何も言葉のないまましばらくの間が過ぎる。
 それから、おもむろに呟いた。
「……枷は、痛くはないか」
 静かだが、感情を押し殺したような声だった。
 サーリヤはとっさに足首に手を触れた。鉄の足枷は体温に温まり、大分馴染んできている。歩いている時以外はたいして気にならぬ程だった。
「痛みはございません」
 だから、そう答えた。質問に対する素直な答えだった。
 だが、アクラムはサーリヤの肩を掴むと、強引に頭を上げさせた。
「そなたには、己というものがないのか!」
 突然の怒声だったが、言われた内容がとっさに理解できず、サーリヤはきょとんとしてアクラムの顔を見つめ返した。
「突然有無を言わせず連れてこられて、女のように囲われ、仕事を奪われ、挙句の果てにこのようなものまでつけられて……不満には思わぬのか!? 怒りを感じぬのか!!」
 今にも殴りかからんばかりの勢いだったが、サーリヤは不思議と恐ろしさをまったく感じなかった。
 ただ、目の前に輝く黒い瞳を見つめていた。
 ああ……似ているどころではない。彼そのものではないか。
 あの懐かしい彼の瞳がここにあるではないか。
 そう思えば、心にあたたかなものが湧き出すような心地さえした。
「……あなたは、いつも怒っていた」
 気がつけば勢いに押されるようにして、思わずそう呟いていた。
「でも僕には、怒りというものがよくわからない……少なくとも、今のこの状況には怒りを感じません。何故あなたは怒っているのですか?」
 礼儀も忘れてそう尋ねると、アクラムは両目を大きく見開いた。
「僕には、あなたこそが不思議です。何故そんなにも怒っているのか、知りたいのです……僕はそのように怒ったことなど今までにないから」
「……あの時も、そうだったというのか」
 漆黒の瞳は、まるで幼子のように揺らめいている。
 その宇宙に、黒い炎が燃えるのがとても美しいと思ったのだ。
「あの時も、そのようにして私の話を聞いていたというのか?」
「ええ、そうです」
 サーリヤの心は、喜びに震えていた。
「……だから僕は、またお会いできて嬉しいのです」
 彼が息を飲んだ。
「ずっとずっと……もう一度会いたいと、思っていたのです……」