仁義なき戦い
〜FOR熾鳥様



 夜空には、丸く満ちた月が燦然と輝いている。
 神官や女官達は、月に捧げる没薬の火を次々に消しては、王宮内に住む人々を眠りに誘う為にキピを焚いて回った。清らかなその香りは、眠る人々の夢を明るくしてくれるのだ。
 柔らかな月の明かりに照らされた神子の顔を、王は息を殺してそっと覗き込んだ。
 長いまつ毛が、白く滑らかな頬に優しく影を落としている。
 鼻は高くはないけれど、すうっと通っていて愛らしい。
 小さな唇は果実のように紅く色付いている。
 こうして目を閉じていると、その顔は神々しい程に気品があった。
 もともと愛らしい顔立ちをしていたが、近頃急に大人びて美しさを増してきている。目を開けると、その黒い瞳がやけにきらきらと輝いて子供っぽさを滲ませるのだが……しかしそれもあと数年のうちと思われた。
 やがてこの可憐な蕾は、芳しく華やかに花開くことだろう。
 それが待ち遠しいようでもあり、少し寂しいようでもあり……王はその幸福な悩みに、時折こうして神子の寝顔を眺めてはうっとりと溜息をつくのであった。
「……何だよ、ジャハーン」
 眠っていると思われた唇から、ふいに静かな声がこぼれた。
 不思議な声だと、王はいつも思う。
 神子はもう声変わりをすっかり済ませているらしく、それはけして子供の声というわけではない。
 低すぎはしないが、男性として高い声とも言えまい。音程で言うならばごく普通の男の声だ。音量もそれ程はない。
 しかしそれは、いつも耳に柔らかく心地よく響いてくる。
 やさしい声、と言うのだろうか。
 そんなことを考えていると、まるで作り物のように繊細なまつ毛が数回震えて、ゆっくりと開かれた。
 闇の中で、底の見えない黒い瞳が月光を反射した。
「さっきから人の顔ジロジロ見て……何かついてんのか?」
 不機嫌そうな声は、照れを隠そうとする神子独特の強がりである。
 そんなことはとっくに承知の王は、喉の奥で低く笑いながら、右手で神子の額にかかった髪を払い除けた。
「今宵は満月だ……だから、お前の顔を見ていたのだ」
 神子は姿勢はそのままに、視線だけを窓の外に投げかけた。
「本当だ。外が明るい」
「そうだ。だからお前の顔がよく見える」
 神子の瞳が一瞬揺れた。
「……あっそう」
「月の光を浴びたお前は、息を飲むほど美しい」
「…………あっそ……」
「潤、何故顔を隠すのだ。これ、こっちを向かぬか」
「うるさい、あんたも早く寝ろよ」
「寝る?」
「夜だろ。だから寝るんだよッ」
「……このままでは眠れぬ」
 王は顔を隠してしまった神子の身体を、毛布ごと抱きしめた。
「血が、騒ぐのだ」
 毛布を掻き分けて、耳元で低く囁いた。
 神子が息を飲む音が聞こえる。
「潤、静めてくれ」
「……俺が?」
「お前にしかできんことだ」
 そっと毛布から顔を出して、神子が王の顔を見上げた。
「満月だから血が騒ぐわけ?」
「……そうかもしれんな」
「狼人間かよ、お前は」
「狼人間? 私は怪物ではないぞ」
「似たようなもんだろーが」
 何がおかしいのかクスクスと笑いながら、神子は白い両手を伸ばした。
 そのまま王の首に回して、グイと引き寄せる。
「いいよ。……静めてやる。熱を冷ますには、一度上げてからじゃないと」
「そう来なくてはな」
 フッと笑って、王は神子の腕に求められるままゆっくりと唇を重ねた。
 柔らかい温もりを味わってから、舌を忍び込ませて歯列をなぞる。それが合図のように、閉じられていた歯が開かれて、甘く蠢く舌が王のそれを歓迎した。
「……ン……」
 目を閉じたまま、神子が鼻に抜けるような声を出した。
 お互いに与え合い、奪い合う。その争いにも似た愛の応酬を繰り広げた後、王は唇をその首筋に落としていった。
「ああ……ジャハーン……」
 そろそろと手で脇腹をなぞり、唇で優しく乳首をはさんだだけで、神子は切なげな声を出して身体をくねらせた。逃げるようなそぶりを見せて、その実より深い快感をねだっている。
「イヤ……くすぐったいよ」
「しかし、優しく触れなくてはな。何しろこの身体は壊れやすい」
「馬ァ鹿……女じゃ、ないんだから……そんな、簡単に壊れる、かよ……」
「いいや、万一にも壊れては困る。代わりは利かぬ大切な身体だからな」
 引き締まった臀部を布ごしに両手で包んでそう言うと、神子が嬉しそうに微笑んだのが気配でわかった。彼は言葉以外はとても素直なのだ。どんなに口で尖って見せても、表情では喜びを満面に出しているのだから、かわいらしいやらおかしいやらで王はいつも笑いを堪えるのに苦労する。以前はそれで笑ってしまってよくご機嫌を損ねたものだが、今では慣れたもので、知らん振りを決め込むことができるようになっていた。
「あぁっ……ハ……んんッ……」
 ツンと尖った乳首やしっとりとした皮膚をたっぷりと愛しながら、既に熱を伴った硬さを帯び始めた高ぶりを触れるべく、王が神子の亜麻の腰巻に手を掛けた、その時であった。

「母上ぇ……」
「うわ―――ッ(ドカッ、ドスーン)!!!」
 突如部屋の外から聞こえて来た幼い泣き声に、神子は慌てて跳ね起きて自分の衣服を整えた。
 見ると、グスングスンと泣いているラダメス王子の手を引いたウセル王子が、途方に暮れたように入り口の所に立っていた。
「ななな、何かなあ? ウセル。どど、どうしたのかな?」
 見事に紅潮した顔と上擦った声で、神子は自分の身体をそれとなく点検しながら二人の元に歩み寄った。
「ラダメスが……月が怖いって泣いていて……。それで、大丈夫だって言ったけど、泣き止まなくて……それで、ボク……わ、私も、何だか怖くなって来て……だから、母上に助けてもらおうと思って……」
 それまで懸命に涙を堪えて来たのが、神子の顔を見たら急に気が緩んだのであろうか。
 固く引き結んだウセル王子の口元が俄かに震え出したかと思ったら、母親譲りの赤褐色の瞳に涙が浮かんで、ポロポロと零れ落ちた。
「夜は母上の寝所に行ったらダメだってシフラが言ってたんだけど……でも……でも……」
「ははうえぇ……」
 兄の涙を見たラダメス王子がますます悲しげに泣いてしまったので、神子はすっかり胸を痛めてしまい、二人を優しく抱きしめたのだった。
「大丈夫、大丈夫だから。俺が居るから、もう怖くないだろ?大丈夫、キレイな月じゃんか。月は空に居るだけで、何にもして来ないんだぞ?」
「ヒック、ヒック、ははうえぇ……」
「ああ、ラダメス、かわいそうに。怖かったんだな。ウセルも、お兄さんだから頑張ったんだな?偉かったね。いい子いい子」
「母上え……エーン」
「よしよし、ほら、こうして抱っこしてたら、怖くないだろ?なっ?」
「ウン……怖く、ない」
「そうだろ。よし、いい子だな。じゃあ、手を繋いで行ってあげるから、二人とも自分の部屋に戻ろうな。朝になって二人が部屋に居ないってわかったら、皆が心配しちゃうから」
「ウン……だけど……」
「ははうえぇ、いやあ。いっしょにいてぇ」
 ラダメス王子がしがみついてイヤイヤをするので、神子は少しだけ困ったような顔をした後、王子の頭をそっと撫でて微笑んだ。
「わかった。一緒に居るから。今日は、一緒に寝よう。だから、二人の部屋に戻ろ。な?」
「え? 母上が私達の部屋に来るのか?」
「うん。一緒に寝よう。そしたら怖くないだろ?」
「ウン!」
「ははうえ、いっしょにねるの?」
 涙に塗れた瞳で不思議そうな顔をするラダメス王子に、神子はニッコリと笑って見せた。
「そうだよ。さ、行こうか」
「ウン!」
 途端に笑顔を見せた二人の幼い王子の手を引いて、神子は部屋を出て行った。

「……敵は手強いと見た」
 『母上』と呼ばれることにあんなに抵抗を示していたとは思えぬ、立派な保護者たるその後ろ姿を見ながら、神子が跳ね起きた拍子に蹴り飛ばされたまま床に寝転がっていた王は、憮然とした表情で低く唸ったのであった。