太陽が西に沈んで夜が来ると、天の女神の衣に飾りつけられた無数の星たちが瞬き始めた。
 東の空から昇ってきた月は、ほんの少しだけ欠けていた。

 太陽王とその王妃は、その美しい夜空を愛でながら食事を終えようとしていた。
 水と蜂蜜で割ったワインをごくわずかに口に含み、神子が月を見上げた。
「そういえば、今夜は大丈夫かな? あの二人」
 その心配気な呟きに、王はいかにも自信たっぷりに答えた。
「案ずることはない、潤。手は打っておいた」
「手?」
「良い子守りをつけたゆえ」
 得意げにそう言う王を不思議そうに見つめたものの、神子もすぐに安心したように頷いた。
「それなら良かった……それにしても、あの二人は仲がいいんだな」
「共に暮らしているせいだろう」
「うん。ビックリしたよ。寝室も同じだからさ。王の子供は普通離れて暮らすものだって言ってなかったっけ?」
「確かにそうだ。しかしあの二人は例外だ。……今の境遇のまま離れて育てば、いずれ災いのもとになるやもしれんからな」
「そうだよな」
 神子は悲しげな色を黒曜石のような瞳に浮かべ、それを隠すように目を伏せた。
「悲しいことだけど……仇同士、だもんな」
「幼い子供の心など、周囲が何を吹き込むかで簡単に染まってしまうものだ。王という立場を巡り争いが起こるのは避けられぬことだが……しかし余計な芽を育てることもあるまい」
「ジャハーンの時も、あったのか?」
 神子がそう尋ねると、王はふと遠くを見つめるように目を細めた。
「なかったとは、とても言い切れんな……私は特殊であったゆえ」
「神子が嫁だって告げられたこと?」
「そうだ。それに、私には優れた兄が二人居た。……まあ、それも過ぎたことだ。今はこうして王国にお前を向かえ、平和を保っているのだから、それで良いのだ」
「そうだね」
 神子は微笑んで、王の左手に己の左手を重ねた。
「あれは確かに悲しい事件だったけど、二人の息子のウセルとラダメスが仲良く暮らしているんなら……それで良いんだよね」
「そうだ」
 王も笑みを浮かべ、神子の手を乗せたまま左手を顔に寄せた。そして、そのほっそりとした指に輝く指輪に口付けを落とす。
「何が起こったか、というのは問題ではない。それはもう既に過ぎたことであり、どうしようもないことだからだ。大切なのはその後……今現在と、我らを待つ未来のことだ」
 神子はほのかに頬を染めて、うっとりとした眼差しを王に寄せた。
 その唇からこぼれた溜息は、きっと花のような香りがするに違いない。
 謎めいた闇の瞳が水を湛えた泉のように潤んでいる。男にはないその色気、そして女にはないその強さ。強力な磁力を持ったその瞳に射抜かれて、王はゾクゾクとした快感が背筋を走り抜けるのを感じた。
「潤、そのような目でむやみに人を見ることは許さんぞ」
 ふいにそのあまりの魅力に恐れを抱き、王は神子の腕を引いてしなやかな身体を抱き寄せた。
「そんな目って、どんな目だよ?」
「今お前がしているような目だ」
「それって……」
 神子は王の腕の中で、クスリと笑った。
「心配すんなって。たとえ頼まれたって、あんた以外の人間の前でこんな目なんてできないよ」
「何故だ?」
「何故って……だって」
 神子は目を伏せて、王の皮膚を爪で軽く引っ掻いた。
「馬鹿……わかれよ」
「潤、言わなくてはわからん」
「じゃあ、ヒントをやるよ」
 恥ずかしそうに目を伏せたまま、神子はほんの一瞬だけ王の唇を奪った。
「今、俺が考えていることがわかったら……何故なのかわかるだろ?」
 王の金の瞳が、情欲の炎に揺らめいた。
「潤……」
 王がさも愛しげに神子の名前を呼んだ、その時。

「母上ーっ!」

 ……またしても、またしてもッ!
 王はがっくりとうなだれ、歯噛みをした。
「ウ、ウセル……ラダメス……」
 神子は困ったように王子達と王とを見比べていたが、ウセル王子の腕の中に居る仔犬を見るなり、目を輝かせて二人の元へ走り寄った。
「うわあ! 犬じゃん! どうしたのこれ」
「父上がくださった」
「あー、さっき言ってた子守りってこれかぁ。かっわいいなぁ〜」
 可憐な笑みを振りまいて喜ぶ神子を遠くから眺めて、王は複雑な思いであった。
「それで、二人ともどうしたの?」
「そ、それが……母上」
「うわーん、犬が死んじゃう……。ははうえたすけてぇ!」
 急にラダメス王子が泣き出したので、神子は驚いて王子を抱き寄せた。
「よしよし、大丈夫だから……ウセル、一体どうしたんだ?」
「犬が……さっき、具合がおかしくなったのだ。ピクピク震えて、口から泡出してて……それからすぐ吐いた」
「それで?」
「吐いた後は、震えていなかったが……でも、死んでしまうんじゃないかと……思って……」
「吐いたものって、もしかして何か大きい塊じゃなかったか?」
「え? あ……そうだ……セネトゲームの駒だった」
 神子は仔犬の鼻の頭をそっと撫でてみた。
 仔犬は焦げ茶の瞳で神子を見上げると、クンクンとその手の匂いを嗅いで、小さく尻尾を動かした。
「たぶん、大丈夫だと思うよ」
「ほ、本当かっ!?」
「うん。俺も昔犬飼ってたからわかるんだけど、それはただ単にその駒が喉に詰まってたんだよ。小さい犬は、何でも飲み込んでしまうんだ。それが飲み込んでいいものか悪いものか、まだわからないんだ。でもすぐ吐いたなら大丈夫。鼻も冷たくて濡れてるし……犬の鼻がこういう状態なのは、元気な証拠だからさ」
「そうか……じゃあ、元気なのか」
「うん、大丈夫だよ。だからホラ、ラダメスも泣きやんで……なっ?」
「ははうえ、犬死なない?」
「死なないよ」
「よかったぁ……」
「でもね、これから気をつけないとダメだぞ。犬が飲み込んじゃいそうなものは、下に置かないこと。いいな?」
「はい、母上」
「ハイ!」
 その時、傅育官のシフラがおずおずと廊下から現れた。
「王、神子、申し訳ございませぬ。わたくしの監督が行き届かぬばかりに……」
「ああ、シフラ、気にしなくていいって。ほら、二人とも、シフラが迎えに来たぞ?」
「母上、きょうもいっしょにねよ?」
 無邪気な顔で腕にすがりつくラダメス王子に、神子はしかし首を縦には振らなかった。
「今日はダメ」
「どうして? どうして?」
「ラダメスには、ウセルも犬も側にいるだろ? ……でも、ジャハーンには俺しかいないから」
 王は自分の耳を疑った。今、神子は何と言ったのだ?
「そっかぁ……父上には、母上しかいないから、母上がいないとひとりぽっちになっちゃうんだね」
「そういうこと。だから、今日は二人……と一匹で、寝られるな?」
「うん!」
「母上、では私達は帰る。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
「うん、おやすみ。また明日な」
 シフラと共に去っていく二人を見送って、神子はゆっくりと振り向いた。
 熱のこもった眼差しで、王を見つめる。
「……二人にはああ言ったけどさ、ほんとは、俺があんたと一緒に居たかったんだ」
「潤……」
 王が立ち上がり、神子の元へ歩み寄ると、その白くしなやかな腕が王の首に絡みついた。
 王は神子の腰を抱き寄せて、その引き締まった感触を楽しんだ後、おもむろに神子の身体を抱き上げたのであった。

 どうやら今夜は、勝利の女神は太陽王に微笑んだようである。
 しかし明日からはまた、神子を巡って王宮内では仁義なき戦いが繰り広げられることであろう。だが、今夜だけは……神子は王一人のもの、なのであった。