――それはね、ばら色の町なんだ。
 今でも目を閉じると、誠司の声が耳に響いてくる。
 静かで、それでいてよく通る声。
――フィレンツェというのは、花の都という意味だよ。
 花の都? ちょっと陳腐な表現みたいだけど。
 ちょっと皮肉を言ってしまうのは、僕のいつもの癖だ。
 だけど誠司は、微笑んだままそうだね、と頷いた。
――確かに、ちょっと聞き飽きた表現だ。だけど、それが町の名前だから仕方ない。飽きたからと言って、そう簡単に変えるわけにはいかないだろ?
 それもそうだね。そうコロコロ名前が変わったんじゃ、市民が混乱してしまう。住所変更だってひと苦労だ。
 僕がそう言うと、誠司は小さく笑った。
――その通り。そういうわけで、9世紀に誕生した花の都、フィレンツェは、長い歴史を歩み続けて来たんだ。
 ばら色の歴史というわけ?
 僕は呆れて見せた。
――ばら色の町っていうのは、文学的表現なわけじゃない。本当に、それはばら色なんだよ。
 誠司はそう言って、ちょっと遠くを見るように目を細めた。
――ドゥオーモの長い階段を上ってクーポラの展望台に出るとね……そこには一面のばら色の屋根が広がっている。文字通り、一面だよ。全ての家の屋根がばら色なんだ。フィレンツェはその外観を損なわないように、建造物にとても厳しい制限が課せられているから。アルノ川がゆったりと流れていて、遠くにはトスカーナの緩やかな山々が連なっていて……とてもきれいなんだ。いつかお前にも見せたいな、一真。
 じゃあ、一緒に行こうよ。
 僕がすっかり骨の浮き出た彼の手を握ってそう言うと、誠司は眩しそうな顔をして頷いた。
――そうだな……いつか。
 俺はその力のない言葉が悲しくて、何度も何度も、馬鹿みたいに繰り返した。
 一緒に行こう。絶対に……一緒に行こうよ。退院したら、飛行機の予約を取ってさ。だから、今はゆっくり休んで、きちんと栄養を取って、早く治そう、誠司。大丈夫。絶対によくなるから……そしたら、一緒に行こう。
 誠司は俺に合わせるように何度も頷いて、そしてまた、あの遠くを見るような目をした。
 誠司が死んだのは、その約束から一ヵ月後のことだった。

 すっかり痩せこけて、最後の方は熱で意識が朦朧としていた。だけど彼は、いつも遠くを見るような目をしていた。
 その黒い瞳には、一体何が映っていたんだろう?
 一体君は、何を見ていたの?
 僕は冷たくなってもう二度と開かない瞼を見つめながら、心の中で繰り返し誠司に問い掛けていた。



 飛行機の窓から見える空は、いつまで経っても明るいままだった。
 日本から西へ、ひたすらに太陽を追いかけて飛んでいるのだ。
 プライベートモニターで映画を観ることもせず、僕は窮屈なエコノミー席でただひたすらに本を読み、それに飽きると窓から見える空を眺めていた。
 自分が今飛行機に乗っていて、これから外国に行くんだという実感が、まるで湧かなかった。
 旅行に対する期待だとか高揚心だとかもなく、ただ面倒だという感覚が重たく身体に圧し掛かっていた。
 出掛ける、という行為に魅力を感じなくなったのはいつからだろう?
 僕は心の中で、答えのわかりきっている問いを自分に投げかけてみた。
 自分は、疲れているのだろうか。疲れている余り、心が麻痺しているのだろうか。そうかもしれない。
 ならば、この旅行でそれは癒されるんだろうか?
 その疑問だけは、答えはまだ出てはいない。あまり良い答えは期待できそうにないけれど。
 僕は頭の中でぐるぐる思考を巡らすのにも飽きて、また小さな分厚い窓から外を見つめた。
 冬の上空は、白々と晴れて、それでも凍りつきそうなほど冷たく見えた。

 アムステルダムを経由して、僕はようやくローマのフィウミチーノ空港に到着した。時差ぼけでぼんやりする頭を抱えたまま、直通電車に乗ってローマ・テルミニ駅に向かい、フィレンツェ行きのユーロスターに乗り込む。
 列車の中は空いていた。
 僕は古びたバックパックにもたれるようにして、飛行機とは違う大きな車窓を眺めた。
 テルミニ駅はあまりにも大きく、そして様々な人々でごった返していた。それなのにフィレンツェに向かう人々がこんなにも少ないというのは、不思議な気がした。彼らは一体何処へ行くのだろう?
 彼らにはそれぞれ他に目的地があるというわけだ。
 テルミニ駅からは様々な電車が出ている。このまま違う国へだって行くことができるのだ。
 このまま、フィレンツェへ向かっていいのだろうか?
 もう何十回も繰り返したやりとりを、心の中でもう一度する。
 一体今更、一人でフィレンツェに行って何になると言うのだろう?
 見たところ、ローマだってずいぶん楽しそうな町じゃないか。何しろ活気に溢れているし、大きな町だ。見るものも、行くべきところも、きっと山のようにあるだろう。しばらくローマを楽しんでから、それからフィレンツェに向かったっていい。気が変わったら、ミラノやベネチアに足を伸ばしたっていいし、フランスやオーストリアまで行くのもいいかもしれない。あちこちを転々としていけば、きっと一ヵ月半なんてあっと言う間だろう。
 そう考えながら、自分でもその気がないことはよくわかっていた。
 僕はフィレンツェに行くしかないのだし、結局のところ他に目的地なんてないのだ。

「ボンジョルノ」

 思考を断ち切るかのように突然耳に入った挨拶の言葉に、僕はビクッとしてバックパックから身体を起こした。
 声の方に視線をやると、とてもイタリア人には見えない、随分色素の薄い男がニヤニヤしながらこっちを見ていた。
「ハイ」
 気安い感じで声を掛けて来るのに戸惑いながら、何のようだろう? と不安が頭をもたげる。
「……ハイ」
 僕がぶっきらぼうに返事を返すと、男は僕の斜め前の席に腰を下ろした。座席は新幹線のように向かい合わせになっているから、必然的に僕とは斜向かいで顔をつき合わせることになる。
「僕は、クリストフェル」
「……カズマ」
「カズマ。何処から来たの?」
「……日本から、だけど」
「僕はノルウェー。独り?」
「そうですけど……何か御用ですか?」
 少し訛りのある英語だと思ったら、ノルウェー人だったらしい。だけどだからと言って、それが馴れ馴れしく話しかけられる理由にはならない。
「用っていうか……長い時間電車に独りで乗ってるのも飽きるし、少し話をしたいと思ってさ。君みたいなきれいなアジア人と会うのは初めてだから」
 これは、物珍しがられているのだろうか?
 僕が憮然とした面持ちでいると、ふいに別の声が近くからかかった。
「スクージ」
 僕とクリストフェルと名乗った男が顔を上げると、スーツ姿の男がそこに立っていた。いかにもイタリア男といった感じの、スタイリッシュなビジネスマンだった。彼は二人分の視線を受けて眉をひょいっとあげると、クリストフェルに向かって言った。
「そこは僕の席だと思うのですが?」
「あ……ああ、失礼」
 クリストフェルは慌てたようにそこから立ち上がった。
「グラッツェ」
 イタリア人は短く言うと、さっと席に座った。その瞬間、ほのかな香水の香りが彼から漂ってきた。彼はほんの少し微笑みを浮かべて、クリストフェルを見上げる。
「もし御存知だったら失礼だが……彼は男性のようですよ、シニョーレ」
 クリストフェルは目を丸くして僕の方を見ると、あちゃぁ、というように顔を崩し、それから肩をすくめて歩いていってしまった。
 僕は唖然としてその後姿を見送り、斜め向かいの男性に視線をうつした。
「……どうやら彼は、貴方を女性だと勘違いしていたようなのでね」
 苦笑しながら彼がそう言うので、僕はまさか、と目を剥いた。
「女性に間違われたことなんて、一度もありませんよ」
「ええ、もちろんそうでしょうね。気を悪くされたのでしたら謝ります」
「あ、いえ……」
 礼儀正しい彼の様子に、僕は面食らった。
「そういうわけでは」
「たぶん、名前のせいもあるでしょう。カズマ……でしたね。貴方の名前は、ヨーロッパ人にとって女性の名前のように聞こえるから」
 僕の顔をちょっと見て、彼はふっと笑った。
「それだけでは無理があるかな。……そうですね、日本人男性はたまに性別がわからない、と思う時がありますよ。年齢もね。僕の仕事仲間でも日本人が何人かいるが、どう見てもティーン・エイジャーだ」
 話しながら、彼の表情はくるくる変わる。しかめっ面をしてみたり、呆れたように天を仰いでみたり、ニヤッと笑って見せたり……ボディ・ランゲージならぬ、フェイス・ランゲージのようだった。
「だから、もし女性に間違われたくないというのなら、髭を生やしてみるのも一つの手だと思いますよ」
「髭を……でも僕は、髭が薄くて。生やしてもみっともないだけなんです」
 饒舌な彼に誘われるように、僕はつい言わなくてもいいようなことを言ってしまった。
 彼は、また眉をひょいっと上げて見せた。
「そうなの? もしかしたら、君は本当に若いのかな」
「……20歳です」
「本当に?」
「もちろん」
「おやおや、それは立派な大人だ。日本人というのは本当にミステリアスだな」
 そう言って楽しそうに笑う。
 僕もつられて、ちょっと笑った。
「ひどいな……」
 その時、電車がおもむろに動き出した。発進時に何のアナウンスもないので、少しヒヤリとする。
 車窓に向けていた視線を彼に戻すと、彼はスッと右手を差し出してきた。
「アレッシオ。アレッシオ・マルディーニ」
 僕も慌てて手を伸ばし、彼の手を握った。サラリと乾いていて、温かい大きな手だった。
「カズマ……カズマ・アイザワです」
「よろしく」
 アレッシオは僕の手をぎゅっと握ると二回振った。
「カズマは、フローレンスまで?」
 僕はそう聞かれて、一瞬呆け、それからフローレンスというのがフィレンツェの英語名だと気がついて慌てて頷いた。
「そうです。貴方は?」
「僕は今フローレンスに住んでいる。ローマには仕事で来ていてね。フローレンスにはどのくらい?」
「ああ……まだはっきりと決めたわけじゃないけれど、たぶん一ヶ月半くらい」
「もしかして、留学か何か?」
「いや、そういうわけじゃないんだ。ただの旅行」
「へえ、珍しいね、この時期に……ヴァカンスというわけではなさそうだけど」
「冬は、飛行機代もホテル代も安いから」
「ふぅん……でも、やっぱり旅行には夏をおすすめするよ」
「どうして?」
「冬のイタリアは寒いからね……外に突っ立っていると凍えてしまうから、とりあえず時間を潰す為にバールなり何なりに入らないといけないだろう。バールに入れば、もちろんお金がかかる。椅子に座ろうと思ったら、もっとお金がかかる。その点、夏なんて、芝生に寝転んでビールを飲んでいるだけで、あっという間に一日なんて過ぎてしまうよ」
「……それも、一理あるね」
 僕が頷くと、アレッシオはだろう? と言って笑った。
「それに、夏のイタリアはとても美しいよ。見るべき価値はあると思うな」
 見るべき価値、か。
 と、その時、女性の車掌が座席の横に立った。
「ビリエット?」
「シ」
 アレッシオが頷いて切符を車掌に渡したので、僕もあわててバックパックのフロントポケットから切符を出した。
 彼女は僕のチケットにスタンプを押しながら、チラリとアレッシオを見て何かを言った。
 アレッシオはそれに笑って見せ、二言三言会話を交わす。
 車掌は肩をすくめて僕にウィンクをすると、切符を差し出してきた。
「プレーゴ。シニョリーナ……」
 そしてまた早口のイタリア語で何かを言うと、笑いながら次の座席へ向かっていった。
 僕はしれっとしているアレッシオをじろっとにらんだ。
「何か良くないことを話していたんだろう?」
「とんでもない。何故?」
 アレッシオは心外だな、という顔をする。
「シニョリーナって言ってたよ……それって、女の人に対して言うことだろ。そのくらい、わかるよ。他に何て言っていたのかはわからなかったけど」
 アレッシオは堪え切れない、というように声を出して笑うと、「ミ・スクージ」と言った。
「彼女は、君のことを恋人か? と聞いてきたんだよ」
「それで?」
「違うけど、これからそうなりたいと思ってるって答えたのさ」
「アレッシオ」
「ちょっとしたジョークだよ。怒ったのならすまない」
「……別に怒ってはいないけど。そうか。でも……彼女にも僕は女性に見えたんだな」
 ちょっとショックを受けながらそう言うと、アレッシオはまた楽しげな声を出して笑った。
「気の毒だけど、どうやらそのようだね」
「……それで、他には何て?」
「ライバルが多そうだけど頑張ってね、だそうだよ」
「最後のは?」
「イタリア男に気をつけて。ボン・ヴィアッジョ、良いご旅行を、とのことです」
 僕は憮然として腕組みをすると、座席の背もたれに背を預けた。
「……忠告をどうもありがとう」
「お礼なら彼女に言ったら?」
 悪戯っぽい顔をする彼に、僕は溜息をついた。
 そして、また視線を車窓に戻す。
 都会の街並みがどんどん後ろへ流れていく。それはもちろん日本のどの都市とも違う、ヨーロッパの都会の風景だった。










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