「カズマ」
 ふいに耳元で聞こえた低い声に、僕はビクッとして顔を上げた。
 どうやら景色を眺めながら、うたたねをしていたらしい。
 僕は口元をこすりながら椅子に座りなおす。
 一瞬、状況がよくわからなくて混乱した。彼は誰だっただろう? 今名前を呼んだのは、誠司だろうか?
「よく眠っていたね。もうすぐフローレンスに着くよ」
 彼が穏やかな微笑みを浮かべながらそう言う。
 ああ……そうだ。彼はアレッシオだ。ここはフィレンツェへ向かう電車の中で、誠司は……一年前に、亡くなったんだった。
 僕がぼうっとしているので、まだ夢から覚めかねているのだろうと思ったのだろう。アレッシオは僕の顔の前でひらひらと手を振った。
「大丈夫かい? あと10分くらいで駅に着くと思うけれど」
「あ、ああ……うん。ありがとう」
 僕は何となく気まずい思いで、窓の外に目をやった。
 先ほどとは景色が一転していた。
 そこには夕暮れに染まった穏やかな緑が広がり、石造りの古びた家や、古風なんだか現代的なんだかよくわからないマンションがぽつぽつと建っている。
「一番美しい景色を見逃したね。トスカーナのブドウ畑を……ま、もっとも今の季節では実はなっていないけど」
「ブドウ畑?」
「トスカーナはワインの名産地だからね。キャンティ・ワインは飲んだことあるかい」
「いや……あんまりワインにはくわしくなくて」
「それなら、この機会に是非飲んでみるといいよ。ワインはその土地で飲むのが一番おいしいから」
 僕はアレッシオを振り返った。
 彼は座席の肘掛に頬杖をついて、理知的な眼差しでこちらを見つめている。
「うん、そうだね。そうするよ」
 アレッシオの言葉通り、それから10分ほどして、列車はフィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ駅に滑り込んだ。
「さて、行かなくては」
 アタッシュケースを持ってさっと立ち上がったアレッシオは、再び僕に手を差し出してきた。
「楽しい時間をありがとう、カズマ」
「あ、こちらこそ……僕はずっと寝ていたけれど」
「君の寝顔も悪くなかったよ。景色はもう見飽きていたからね」
 アレッシオはしっかりと僕と握手を交わした。
「では、君の旅に幸運がありますように。もし何処かで会うことがあったら、是非ランチでも」
 スマートな社交辞令に、僕もあいまいな微笑みで答えた。
「……そうですね」
「ボン・ナターレ……良いクリスマスを」
 アレッシオは最後にそう言うと、くるりと背を向けて車両から降りていった。
 僕はその颯爽とした姿をぼんやりと見送りながら、もう彼と会うことはないんだろうな、と思った。この歴史のある大都市で、彼とすれ違う確率なんてあるわけがない。
 その予想が早いうちに破られることになるとは、今の時点では想像もしていなかった。
 僕はハッと我に返ると、重くて馬鹿でかいバックパックをかついで、ヨロヨロと駅に降り立った。

 夕暮れのサンタ・マリア・ノヴェッラの駅前は、思っていたよりずっと古い街並みで、僕は少し驚きを覚えた。
 古いというのか、何と言うか……薄汚れている、と言ってもいいくらいだ。
 名だたるイタリアの観光地なのだから、もっときれいなところを想像していたのだけれど、町は長い歴史と廃棄ガスとで気だるげにくすみ、冬の暮れ行く空の下で物憂げに佇んでいた。
 突っ立っていた僕の方へ、ジプシーと思われる女性二人組が近付いてくる。
「シニョーラ……」
 哀れっぽい表情でどんどん近付いてくるので、物乞いだとわかった僕は、そこからあわてて逃げ出した。
 ゆったりとした階段を下りて、ポケットから小さな地図を出しながら左手へ向かう。
 目指すのは、ファエンツァ通りにあるユースホステルだった。
 とにかく時間も時間だし、腰を落ち着けてしまいたい。
 そこは割と有名なホテルで、安くて安全で駅から近い、というのが売りだった。
 さして迷うことも無く、小さなゲームセンターのようなけばけばしい外観のフロントにたどりつく。
「ハイ」
 眼鏡を掛けた神経質そうな若い男性が、フロントから顔を出す。
「独りなんですが」
「一泊?」
「今のところは。いくらですか?」
「四人部屋だと、一人22ユーロ。六人部屋もあるけど、今日は空いてないよ。でも、バスルームは部屋についてるし、鍵のかかるロッカーもある」
「そこでけっこうです」
「OK。それじゃ、パスポートを」
 頷いてパスポートを提出すると、男は顔写真の載っているページを開いて、番号をノートに写し始めた。
「料金は前払いだけど」
「あ、はい……」
 僕は財布から、両替したばかりのきれいな紙幣を取り出す。
 22ユーロちょうどを渡すと、彼はそれを確認してから、パスポートと領収書、それから鍵をカウンターの上に置いた。
「これが部屋番号。こっちが、君のベッドの番号だ。この大きい鍵が部屋の鍵で、小さい方がロッカーの鍵。OK?」
「OK」
「そこのコンピューターは無料だから、空いてたら自由に使ってくれてかまわない。食堂とランドリーも一階にある。そちらは有料だけどね。帰る時はそこのワゴンにシーツを持ってきてくれ。もし延泊するなら、午前11時までに言ってきて。それがチェックアウトの時間だから」
「わかりました、ありがとう」
「ごゆっくり」
 眼鏡の男は頷きながらそう言うと、フロントに置いてあるPCに背を丸めて向き直った。
 これで、至って事務的な事務手続きが終わったということらしい。
 僕は溜息をつくと、4−28ーAと書かれたキーホルダーを握り締めて、狭い階段を上っていった。
 ホテルの廊下は、学校の廊下に少し似ていた。あちこちに落書きやペインティングがしてあるけれど、どこか素っ気ないような、そして雑然とした雰囲気がただよっている。
 4−28と書かれたドアに鍵を差し込むと、何かが引っかかっているようでうまく回らなかった。
 おかしいな、と思いながら強く押し込むと、ガタガタとドアノブが不吉な音を立てる。でも、どうにか鍵は回ってくれた。ガイドブックに載っていたことを思い出して、鍵を二回ほど回すと、ガッタンと音を立ててドアが開いた。一瞬ドアが外れたのじゃないかと思ったけれど、どうやら無事のようだった。
 室内は暗かった。電気のスイッチを探して点灯させると、二つある二段ベッドはどれも空のままだった。下の段の二つのベッドに、誰かが使った痕跡があったけれど、皆外に出ているようだ。外に食事でもしに行っているのだろう。
 僕のベッドは窓際の上の段だった。そこに鍵を置いて、置かれていた粗末な椅子に腰を掛ける。
 今すぐにベッドに横になりたかった。なんだか、ひどく疲れている。
 だけど僕はバックパックから下着と着替え、それからシャンプーとボディソープを出し、その大きな荷物をロッカーに押し込んで鍵を掛け、バスルームに向かった。
 便器と狭いシャワーブースだけのバスルームは、部屋と同じく簡素な造りだったが、見たところ清潔そうなのでちょっと安心した。と言っても、公立学校のプールのシャワー、といった程度の清潔さだったけれど。
 ざっと汚れを流して、僕は髪を拭くのもおざなりに、梯子を上ってベッドに潜り込んだ。
 機内で食事を摂ってから大分時間は経っていたけれど、空腹はまったく感じていなかった。
 それよりも、眠たくて仕方なかった。時差ぼけだろうか。
 目を瞑るなり急激に薄れていく意識の中で、僕は記憶の中の彼に話し掛けた。
 ……誠司。僕は、ついに来たよ。フィレンツェへ。
 彼は何て答えるだろうか?
 それを思いつかないうちに、眠りが僕を頭まですっぽりと包み込んでいた。










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