「弓削(ゆげ)って、小さい頃イタリアに住んでたって本当?」 出会ったばかりの頃、僕は誠司にそう聞いたことがある。 クラスの連中が噂しているのを耳にはさんだのだ。 高校生ともなると、交換留学制度というのがあって、子供の頃より外国というのはそんなに遠い存在でもなくなっていた。僕も、高校一年の夏にオーストラリアに短期留学したことがある。 だけどヨーロッパ帰りという響きには、そういった「お手軽留学体験」には感じられない、何か重みのある魅力があった。今思えば、ずいぶんミーハーな憧れだと呆れてしまうけれど。 僕らはその時隣の席で、そして同じ週直を命じられてクラス日誌を書いているところだった。 誠司は日誌に書き込む手を止めて、縁なしの眼鏡ごしに僕を見つめた。それはとても静かな眼差しだった。 「住んでたっていうか……父の仕事の都合で、イタリアと日本を行き来していた時があったんだよ」 「へえ……それって何歳の時? どのくらいの割合で行き来してたわけ?」 興味津々で問いただす僕を見て、誠司はちょっと首を傾げるような仕草をした。 「小学一年から、中学一年の秋までだから……期間とすれば六年間だけど、ずっと向こうにいたわけじゃないしね。半年向こうに住んで、帰国して一年居て……一年くらい向こうに居たこともあったし、一ヶ月だけって言う時もあった。様々だったな」 「それって大変そうだな。学校だって、その度に変わらなくちゃいけないんだろ?」 「うん、でもまあ、そんなもんだって思ってしまえばどうってことないよ。それに、向こうでも日本でも、学校は同じままだったから、二つの学校を行き来しているって感覚だったし」 「イタリアの、何処?」 「フィレンツェだよ」 「フィレンツェ?」 僕はふぅん、と相槌を打ったが、聞き覚えだけはあるその地名に対して、何のイメージも沸かなかった。 「どんなところ? それって」 「とても古い町だよ。ローマほど大きくないし、ミラノ程洗練されてもいない。何処も彼処も古くて、町全体が博物館みたいなところだった」 「京都みたいな感じ?」 「うーん、もっと田舎っぽいかな」 「田舎なんだ」 「道だって昔のままの石畳で、きちんと整備されているわけじゃないし、ビルなんてひとつもない。建物はけっこう高さがあるけど、それでも昔建てられたものだから限度があるしね」 「なんか、聞いていると遺跡って感じだね」 僕がつまらなさそうなポーズを取ってそう言うと、彼は穏やかな笑顔を浮かべた。 誠司のいつもの、あのひだまりのような、優しい笑顔だった。 「そうだね。ある意味で、遺跡の町だよ。あそこだけは、100年後も大して変わらないような気がするな」 「100年後も変化しない町か」 僕はそう呟いて、その見知らぬ町の姿を想像しようとした。 それは「ふるさと」という言葉がピッタリの、のどかで美しい町に違いない。 きっと、誰もが帰りたいと願うような……。 「弓削は、そこに戻りたいって思わないの」 「戻りたい……か、そうだな」 誠司はそう言って、あの遠くを見つめるような目をした。 「離れて大分経つと、町ってすごく変わってしまうって言うじゃないか。何年振りかで里帰りしても、すっかり開発が進んじゃってて懐かしさのかけらもない、みたいな……。でも、そこだとそういう心配はなさそうだよね」 「うん、それはそうだな」 そして、ちょっと困ったように笑った。 「だけど、俺の故郷はあくまでも日本だよ。いい思い出はたくさんあるけど、帰りたいっていうのとはちょっと違う。それに、イタリアなんてまともな人間の住むところじゃないよ。電車なんてしょっちゅう遅れるし、ストライキばっかりだし、スリも多い。バスの運転手なんて、30分の遅刻くらい遅れたとも思ってないんじゃないかな。荷物は届いたり届かなかったりするし、それに電話だって通じない時がある」 僕は誠司の話を聞きながら、おおげさなことを言うもんだと思っていた。まさかそれが本当のことだとは、一体だれに想像がつく? 「でも、やっぱりもう一度行きたいとは思うよ。いつかは」 「ふうん。いいな、そういうのって」 「そうかな」 「うん、そういう場所があるって、すごく羨ましいよ。思い出のある懐かしい町があって、そしてそこは100年後も変わらないで存在し続けるなんて、なかなかないよ」 僕がそう力説すると、誠司は僕の目を覗き込むように、少し身を乗り出した。 「それなら、相澤もそういう場所を見つけたらいい」 「え?」 「探していれば、きっとそういう場所は見つかるよ」 そうかな。そんな簡単な話じゃないと思うけど。でも、見つかればいいな……。 僕はきっとそんなような返事を返したのだろう。だけど、その辺りからの記憶は曖昧だった。 ただ、僕をまっすぐに見つめる彼の瞳だけを覚えている。 きれいな黒い瞳だった。 思えばその時からだったのかもしれない。彼を意識し始めたのは。 それから僕達はなんとなくよくつるむようになり、次第に無二の親友になって、そして高校卒業と同時にお互いの気持ちを告白して、付き合いはじめたのだ。 今ではもう、全て過ぎ去った過去の話で、僕以外誰も覚えていないことだった。 ふと目を開けると、薄暗い天井が見えた。 遠くで、鐘が鳴っている。教会の鐘だろうか。 外して枕もとに置いてあった時計を見ると、7時だった。随分よく寝たな……。 僕はゴソゴソと起き上がると、布団を被ったままベッドの上に座り込んだ。 空腹だった。 それもそうだろう……ああ、それにしても寒いな。暖房なんて全然効いてないんじゃないだろうか。布団に包まっていてもちょっとつらい……今何時だっけ……ああ、7時だ。さっき確認したんだったな。7時か。まだ店なんて何処も開いてないじゃないか。食堂もやってないだろうし……でも起きてしまったのだから仕方ない、支度しよう。 ちょっと葛藤した後、いつの間にか帰って来て眠っているらしい同室の人たちを起こさないように、そっとベッドを降りた。そのまま靴を履き、バスルームで顔をあらう。ちょっとむくんでいた。 それから服を着替えて、財布だけ持って部屋を出る。 静かだった。 一階に下りると何台か置いてあるPCの前には誰もいなかった。そういえば無料って言っていたな。 することもないので、その前に座ってマウスを動かすと、すぐに起動した。 どうやら日本語入力ソフトが入っているようだった。 ホットメールにアクセスしてメールチェックをざっと済ませ、ふと思いついてフィレンツェのホテルを検索してみることにした。ホテルにこだわる気は全くなかったけれど、何しろ長い滞在だ。少しでも安く、快適なところがあればいい。ユースホステルでもいいけれど、一ヵ月半ずっと知らない他人と相部屋というのだけは避けたかった。たまにならいいかもしれないけど。 膨大な量の情報から条件を絞り込んでいって、いくつか目ぼしいホテルをチェックしていく。ひとつひとつ当たっていくだけでも、いい暇つぶしにはなりそうだった。 しばらくPCの前でマウスを操っていたが、どうにもこうにも空腹に耐えかねて席を立つ。 そのまま外に出ると、冬の朝の湿ったような冷気が鼻をつきぬけた。 かなり寒かったが、気分は悪くない。 デコボコした石畳の道を歩いていくと、すぐに小さなバールが見えた。ごくごく小さなカフェといった感じだ。テーブルもかろうじて三人席につけるか、といったくらいの丸いものが三つあるぐらい。年輩の男性が三人、カウンターでコーヒーを啜っている。 その香ばしいいい匂いに誘われて、僕はふらふらとそこに足を運んだ。 「ボンジョルノ!」 ふっくらとした中年男性のカメリエーレが、元気のいい挨拶をくれる。 「ボンジョルノ」 僕も癖でペコリとお辞儀をしながら挨拶を返すと、ショーケースの中を除きこんだ。色々なサンドイッチやパン、パイやケーキが並んでいる。どれも美味しそうだったが、正直空腹を満たせれば何でもいいといった心境だった。 「カメリエーレ、ヴォレイ……パニーノ、ええっと、これ……パニーノ・コン・フォルマッジォ。アッローラ……カフェ・アメリーカーノ、ペルファボーレ」 片言のイタリア語で注文すると、カメリエーレはニッコリ笑って「トレ・エウロ」と値段を告げた。3ユーロ出すとレシートを渡してきて、店の奥を示す。 レシートを持って言われるまま歩いていくと、温めたパニーノとコーヒーがカウンターに置かれ、もう一人のカメリエーレがにっこり笑ったまま手を差し出してくる。 何だろう、チップだろうか? 戸惑っていると、彼は手を伸ばして僕の手からレシートを取って、それを確認すると、またこちらに差し出してきた。 「プレーゴ」 「あ……グラッツェ」 「プレーゴ、ボナペティート!」 席に座るとお金が掛かると聞いていたので、立ったままコーヒーを啜ろうとすると、カウンターに立っていた男性達がニコニコしながらテーブルを指差す。 「え……何ですか?」 尋ねても、彼らは英語を解さないようだ。ただ、座りなさい、というようにテーブルを指し示し、その中の一人が椅子まで引いて促す始末だった。まあ、いいかと思ってそこに腰をかけると、彼らは一様に満足そうに笑顔を交わし、椅子を引いてくれた男性は一つウィンクをしてから彼らの輪の中に戻っていった。 彼らに曖昧な笑みを返すと、僕はとりあえずコーヒーカップを手に取った。 甘く、香ばしい香りを楽しむようにゆっくりと唇を近付け、熱い黒い液体をひとくち啜る。 イタリアで初めて飲んだコーヒーは、間違いなくおいしかった。 →4 |
→TOP