バールを出た後、ネットでチェックしたホテルを二、三軒当たってみることにした。
 きちんと料金を確認して、部屋を見せてもらう。同じファエンツァ通りに、バスルーム共同のシングル一泊で23ユーロというホテルを見つけたので、今日からそこに泊まることにした。部屋は四畳半くらいの広さだったが、掃除が行き届いている感じだった。スタッフも家族経営という感じで、温かみがあるのも良かった。一週間ほど滞在したいと言うと、5パーセント割引してくれるとのことなので、一も二もなく飛びついた。チェックインは3時からだが、荷物を預かってくれるというので、ユースホステルに戻りチェックアウトを済ませてから、バックパックを担いでファエンツァ通りを歩く。
 荷物を預けて身軽になってしまうと、途端にやることがなくなってしまった。
 今日から一週間、泊まるところを探す必要はないわけだし……せっかくだから観光スポットでも行こうか。
 ガイドブックで読んだ内容を思い出しつつ歩き出した。
 日差しの温かい小春日和だったけれど、いまいち気分が晴れなかった。
 その理由は自分でもよくわかっている。
 ドゥオーモだった。
 はるばるフィレンツェまで来たのは、一体何の為だと思っているんだ、と自分に言い聞かせる。
 誠司が僕に見せたいと言った、ドゥオーモのクーポラからの眺めを見る為に、僕は来たんじゃないのか?
 ――そんなことはよくわかっている。
 だけどここまで来て、自分が怖気づいているのもわかっていた。
 ウニタ・イタリア広場まで出て、駅と反対方向へ歩くと、すぐに目の前にドゥオーモの華麗な姿が目に入った。白い大理石に、繊細な彫刻とカラフルな装飾が施された、花のような大聖堂……。
 その姿を見た途端、僕は逃げるように身を翻し、足早に横道に入っていった。
 ……別に今日じゃなくったっていいんだ。時間はたくさんあるんだし、ドゥオーモは逃げないのだから……。
 そのまま道なりに進みながら、僕は目に焼きついた大聖堂の姿を振り払おうとした。
 だけどそれは、消そうとすればする程鮮明にその姿を浮かび上がらせ、僕を息苦しくさせた。
 何をやっているんだ、僕は……。
 やがて、ふいに視界が開けた。
 アルノ川に出たのだった。
 信号を渡って橋の上まで行くと、ゆったりとした川が太陽の光を浴びて、キラキラと水面を輝かせていた。僕はふうっと大きく息を吐くと、石造りのどっしりした欄干にもたれた。
 上流の方には、ヴェッキオ橋が見えた。
 橋の上に建物がひしめくように建っている。あそこには宝石店が多くあるそうだから、きっと観光客で賑わっていることだろう。その左手の方に、ドゥオーモのクーポラのオレンジ色の丸屋根が見え、そこによりそうようにして建つジョットの鐘楼の華奢な姿が見えた。そしてその手前には、ヴェッキオ宮――パラッツォ・ヴェッキオが建っている。
 大体同じくらいの高さの家々の中で、そんな風に教会や宮殿だけがヒョコヒョコと頭をのぞかせている。きっと地図など見なくても、あんな良い目印があれば道に迷うことなどないだろう。
 僕はしばらくそこで景色を眺めていた。
 川風は冷たかったが、意識がしゃっきりするようで心地良かった。

 ここまで来たのだから、ついでにパラティーナ美術館を覗いてこようと思い、僕はパラッツォ・ピッティに足を向けた。橋を渡って真っ直ぐ進み、途中で横道を進めば、すぐにピッティ広場に出られる筈だった。
 チケットを買い、冷え切った頬に手を当てながら、切り石積みの宮殿内に入る。
 カーペットのしきつめられた階段を昇り、美術館へ向かった。
 中はしんと静まっている。
 ちらほらと見える鑑賞客は、会話もなくただゆっくりと歩きながら作品を見ているようだった。足音は全てカーペットに吸い込まれてしまう。賑やかなツアーの団体客も、ここまで足を伸ばすことはまれなのだろう。
 そこは穏やかな沈黙に包まれ、暖房機のたてるかすかな震動音だけが横たわっていた。
 絵画や彫刻は、大体がギリシャ神話や聖書の場面を表現しているらしい。
 まばゆいシャンデリアや豪奢な家具に囲まれて、絵画は眠りについているように見えた。繊細な装飾のほどこされた金の額縁の中で、古びた絵画はどれも歴史の重みを抱えて眠っている。
 そこではまるで、遥か昔から時が止まっているかのようだった。

 パラッツォ・ピッティを出ると、時計は2時少し前を示していた。
 もし何処かのトラットリアで食事を摂るのなら、急がなくてはいけない時間だ。昼の営業が終わってしまう。
 そうは思いつつも、何故だか食事ができる場所を探すのも面倒くさくて、広々とした道をゆっくりと歩いていた。
 たくさんの人が行き交うヴェッキオ橋を渡り、そのまま大通りを歩いてレプッブリカ広場に出る。
 クリスマスまでの臨時設営だろうか、小ぶりなメリーゴーラウンドが置いてあった。誰も乗っていなければ、動いてもいないし、係員すら見当たらなかったけれど、それはクリスマス・ツリーやリースのように飾られて、宝石箱みたいだった。
 かなり上手なギター奏者が、持参した椅子に腰掛けて路上演奏をしている。
 僕はきらびやかなメリーゴーラウンドを眺めながら、そこに立ち尽くして、もの悲しいギターの旋律を聞いていた。
 広場に面したところには、高級そうなカフェがあり、地味な色のジャケットを着た老人達が幸せそうにカップを傾け、会話を楽しんでいる。鳩を追いかける子供たちと、それを笑いながら見ている主婦たち。
 控えめな賑やかさが辺りを満たしている。
 幸せな光景の中で、僕は心の奥にしんとした孤独を感じていた。

 ポン、と肩を叩かれたのは、その時だった。
 ビクッとして顔を向けると、そこにはアレッシオのスマートな笑顔があった。
「ボンジョルノ、カズマ。コメ・スタイ?」
「アレッシオ! どうしてここに」
 僕が心から驚いてそう聞くと、アレッシオは器用に肩で斜め後ろを示した。
「そこの郵便局に用があってね。今から昼休みだから、ついでに用を済ませてきたところさ。君は?」
「ああ……僕は、さっきパラティーナ美術館に行って来たところで」
「ここに立って、誰かと待ち合わせでも?」
「ううん、違うよ。ただ、メリーゴーラウンドを見ていて……」
「メリーゴーラウンドを……ああ、あれか」
 アレッシオはそちらに目をやって、肩をすくめた。
「今日は平日だから、やっていないのかな。動いてないね」
「うん」
 アレッシオはこちらに視線を戻すと、ポケットに手を入れて首を傾けた。
「ところで……ランチはもう取ったのかい、カズマ」
「いや、これからだよ」
「そうか。僕もだよ。どうだい、良かったら……」
 そう言って、ポケットから手を出し、両手を擦り合わせる。
「その、一緒にランチを。ほら、昨日約束しただろう? もちろん、君の都合が良ければ、ということだけど」
 僕はアレッシオの顔を見上げた。
 昨日は座っていたからよくわからなかったけれど、彼は背が高かった。
 日本人とイタリア人は体格が割と似ているから、きっとイタリアの中でも長身の部類に入るだろう。彼の唇のあたりに、僕の頭のてっぺんが来ていた。
 僕がそんなことをぼんやり考えていると、彼がちょっと焦ったように両手をパーにして胸の前で広げた。
「……いきなり、失礼だったかな。日本では、こんな風に突然ランチに誘うなんてことしないのかな?」
 その言葉に、ハッと我に返って、首を横に振った。
「あ、いや、違うんだ。ごめんなさい、ちょっとボーッとしてしまって……あの、けして失礼なんてことは」
「それじゃあ?」
「僕でよければ、喜んで。……何だか面倒くさいから、スーパーマーケットでパンでも買って済ませようかと思ってたところなんだ」
「それはいけない」
 パッと笑顔になったアレッシオは、僕の背に手を当てて促しながら、歩き始めた。
「せっかくフローレンスに来たというのに、食事を楽しまないなんてナンセンスだよ。よし、僕がとびっきりのところを教えてあげよう。友人の両親が経営しているところでね、観光客があまり来ないような、穴場だよ。もちろん、安くて美味しい」
「へえ……楽しみだな」
 地元民のおすすめのトラットリアとなると、俄然期待してしまう。我ながら現金なものだなと苦笑しながら、僕はアレッシオと並んで歩いていった。

「ボンジョルノ、シモーナ」
 ドアを開けて、アレッシオが中に居た中年の女性に声を掛けると、彼女は目を丸くして、それからくしゃっとした笑顔を浮かべた。
「アレーッシオ! ボンジョルノ、アレッシオ、ボンジョールノ!」
 彼女は目尻に細かな皺をたくさん浮かべながら、心底嬉しそうにキスとハグを交わした。
「コメ・スタイ?」
「ベーネ。エトゥ?」
「スト・ベーネ、モルト・ベーネ。グラッツィエ」
 彼女が用意してくれた席に座ると、シモーナと呼ばれた女性は目をくりくりさせて僕を見つめた。アレッシオに「この人は誰なの?」というようなことを聞いている。アレッシオは笑いながら、僕のことを紹介してくれた。さりげなくシニョーレをつけて、男性だと示してくれたので嬉しかった。
 シモーナは僕にニッコリと笑って「ボンジョルノ、カズマ」と言った後、厨房に向かって大声を出した。
「マウリーッツィオ! ……、…………!」
 ビックリするほど大きな声で何かを叫んでいる。
 すると、厨房から調理服を着た中年男性が出てきた。
 どうやら彼女の旦那さんらしい。アレッシオとにこやかに挨拶を交わしてから、シモーナと同じように興味津々の眼差しで僕を見つめる。アレッシオがまた丁寧に僕のことを紹介してくれて、マウリッツィオというらしい男性はコック帽を取って僕に挨拶をした。
 シモーナがメニューを持ってきて、アレッシオが僕の方に向けてくれる。
「何か食べたいものはある?」
「あ……ええと、どうしようかな……」
「もしよければ、ここのおすすめを選んであげるけど?」
「本当に? それじゃあ、お願いしようかな」
 僕がそう言うと、アレッシオはニコッと笑って、シモーナにいくつかオーダーを告げた。
 シモーナが伝票にそれを書き込んでいき、それを後ろからマウリッツィオが覗き込んで、そしてまた厨房に戻っていく。きっと彼らが、アレッシオの友人の両親なのだろう。新たに店にやって来た客とも、賑やかな挨拶を交わしている。
 親しげなやり取りに、僕もいつのまにか笑顔になっていた。










TOP