「カズマ、君は一ヶ月半ずっとフローレンスにいるつもりなのかな?」 アンティパストのサラダを食べながら、アレッシオはそう質問してきた。 僕は一瞬言葉に詰まり、それから曖昧に頷いた。 「……うん、まあ……はっきりとは決めていないのだけれど、たぶんそうなると思います」 アレッシオは片方の眉を上げると、ミネラル・ウォーターを一口飲んだ。 「話からすると、観光旅行のようだけれど。他の町は見て回ったのかい」 「いいえ、日本から飛行機で来て、そのまままっすぐここに来たから」 「君は、学生? 仕事はしているの」 「大学二年生」 「なるほど、長い冬休みというところだね」 「本当はそんなに休みは長くないんだけれど、出席日数も足りているし、やりくりして強引に休みにしちゃったんだよ」 「なかなかやるね。素晴らしい。……でも、君の恋人は怒らないのかい? こんなに長く一人にしてしまって」 「恋人なんて……」 「いないの?」 「いませんよ」 僕は苦笑しながら首を横に振った。 「何故、フローレンスを選んだのか聞いてもいいかな」 顔を上げると、サラダを食べ終わったアレッシオが、じっとこちらを見ていた。 「……友人が、昔フィレンツェに……あ、と、フローレンスに」 「フィレンツェでかまわないよ。その方が正しい名前だから」 「はい。ええと、それで……彼が子供の頃フィレンツェに住んでいて。とても美しい町だと聞いていたので、僕もいつか行ってみたいと思っていたから」 「なるほど。でも、ただの観光だけなら、一ヶ月半は長すぎるようにも思うけれど。たしかに美しく、歴史もあり、とても興味深い町ではあるけれど……君も地図を見て、そして実際に歩いてみて思ったんじゃないかい? ここは、とても小さな町だって」 「……」 僕は無言で頷いた。実際、フィレンツェは想像していたよりずっと狭い町だった。特に、観光客が見て回るような地域は、楽に徒歩で回れるくらいの広さだ。 「でも……フィレンツェに来る為に、僕はイタリアに来たんだ。正直に言って、他の都市を見て回る気にはなれなくて」 「そうなの?」 「はい」 そこで若いカメリエーレがパスタを運んできて、僕達は一時会話を中断させた。カメリエーレがにこやかに去るのを見送って、アレッシオが「マンジャ!」と明るい声を出す。僕も頷いて、ブカティーニというマカロニのようなパスタ料理にフォークを伸ばした。 「どう?」 「あ……、ウン、おいしいよ。ブォーノ」 アレッシオは嬉しそうに頷いて、シモーナにイタリア語で何かを話しかけた。 シモーナは満面の笑みで「グラッツェ、カズマ!」と言って、ひらひらと手を振った。 僕もそれに手を振り返して、前に向き直った。 きれいな仕草で、でも豪快にパスタを胃に収めているアレッシオをちょっと眺めてみる。 イタリア人独特の、彫りの深い甘い顔立ちをしている人だ。ゆるやかに波打つ焦げ茶色の髪をしていて、ちょっと長めの前髪を無造作に後ろに流しているのがとても似合っていた。スーツはいかにも仕立てが良さそうで、お洒落だ。きっとすごくもてるんだろうな。 そんなことを考えていると、ぱっちりとアレッシオと目が合ってしまい、慌ててパスタ皿に目を落とした。 思わず見とれてしまった……変に思われなければいいけれど。 「ところで、カズマ。君は、日本の何処に住んでいるの?」 話題が変わって、ちょっとホッとした。 「東京だよ」 「東京……よかった」 「え? 何が?」 「実は、三ヵ月後から日本に出向することが決まっていてね」 驚いて顔を上げる僕に、アレッシオは機嫌良さそうに話を続けた。 「家族も、親戚も、友人も居ない土地で暮らすのには不安があったから……嬉しいよ」 僕は戸惑ってしまって、ごまかすようにガス入りミネラルウォーターのグラスを口に運んだ。 「日本に行くって……アレッシオは何の仕事をしているの?」 「食料品を外国に輸出しているんだ。実は、日本に行くのは市場調査も含んでいて、今度から輸入にも手を伸ばそうかという方針らしいんだ。日本は歴史ある食文化を持っている国だから、今から楽しみだよ」 「ん……そうだね、貴方の口に合えばいいけれど」 「僕はスシとテンプラが大好物だからね、他の日本食も食べてみたいよ」 楽しそうにそう言うアレッシオに、僕は何だか毒気を抜かれて微笑んでしまった。 「以前二年間アメリカに転勤したことがあったのだけれど、その時は地獄だったな。アメリカにも一流のレストランはたくさんあるけれど、日常食はまるで駄目だね。絵の具で色付けしたみたいなレトルト食品を見た時なんか、スーパーで倒れそうになったよ」 哀れっぽくそう言うのがおかしかった。 「本当だよ、カズマ。君はアメリカに行ったことは?」 「まだないよ」 「そう、それは良かった。アメリカは中々楽しいところだったけれど、お金がなければ駄目だよ。もっと歳を取って、リッチになってから行った方がいい。高いお金を出さなければ、人間の食べものにありつけないからね」 「それはひどいな。ちょっと言いすぎじゃない?」 「言いすぎなものか。食を愛する人間として、そこは決して譲れないところだ」 真面目な顔をしてアレッシオに、とうとう僕は声を上げて笑い出した。 フォークを握り締めて笑い転げる僕を、アレッシオも笑って見ている。周りの人々も、つられるように笑い始めて、さらにおかしくなってしまった。 散々笑いながら食事を済ませ、自分の分は払うという僕に「‘安くて‘おいしい店って言っただろう? それに、ここで君にお金を払わせようものなら、後々ずっとシモーナにからかわれることになるからね」と、アレッシオは半ば強引におごってくれた。恐縮しつつ外に出ると、時計は三時半を示していた。 「遅くなってしまったね……仕事に戻るんでしょう?」 だけどアレッシオは、悪戯っぽく目を輝かせながら首を横に振った。 「知らないのかい、カズマ? イタリアの昼休みは長いんだよ。あと一時間は余裕がある」 「えっ、そんなに?」 「さあ、腹ごなしに散歩をしようか」 そう言って歩き出すアレッシオの後を、慌てて追った。 「日本ではそんなに昼休みをもらえないと思うよ。大丈夫なの?」 「アメリカでの経験もあるからね、平気さ。それに……実を言うと、昼休みを早く終わらせて会社に戻って、仕事をする時の方が多いんだ。仕事柄、ね。他の国はここほどのんびりしていないから」 だけど、とアレッシオは笑う。 「たまにはイタリア人らしく、長い昼休みを取るのも悪くないね。カズマもいることだし」 その言葉がなんだかくすぐったくて、僕は首をすくめた。 それから、ゆっくりと歩くアレッシオにくっついて、あちこちあてもなく散歩をした。 アレッシオは日本のことをあれこれ質問してきて、僕は時々考え込んだり、言葉を選んだりしながら、丁寧にそれに答えていった。その合間に、アレッシオがあちこちの建物や店を指差しては、あれはどういう場所だとか、あのトラットリアはおいしいだとか、あそこは観光客狙いだから高くて派手な割においしくないだとか、色んな情報を教えてくれた。 このままホテルに戻ると言う僕を、アレッシオはいつのまにか送ってくれたらしい。気がつくと、ファエンツァ通りのすぐ側の、サン・ロレンツォ教会の前まで来ていた。 「さて、君のホテルは何処かな」 「あ……ここだよ。今日からここに泊まることになってるんだ」 フロントは、階段を上った二階にある。 その階段の前まで来て、僕らは立ち止まった。 「アッローラ、カズマ……今日は、とても楽しかったよ。昼休みが短すぎる、なんて思ったのは初めてだ」 「そんな、僕の方こそとても楽しかった。それに、食事までご馳走になってしまって……ありがとうございました」 「そんなことは気にしないで。楽しんでもらえて、嬉しいよ。すごくね」 アレッシオはちょっと言葉を切ると、僕をじっと見つめた。 「もっと、日本のことについて聞いてみたいんだが……よければ、明日の晩、ディナーにつきあってもらえないかな」 「え?」 「明日は金曜日だから、仕事が早く終わるんだよ。恋人と一緒に食事をするべきなのかもしれないけど、残念ながら相手がいない。かわいそうな僕に君の時間をくれないか?」 おどけたような仕草と、芝居掛かった台詞。彼は本当に表情が豊かだ。 「相手がいないって、冗談でしょう?」 「冗談? 冗談だったらいいんだけどね。悲しいことにそれが真実さ」 いかにも不幸そうに首を振るのがおかしくて、僕は思わず頷いていた。 「奇麗な女性じゃなくて申しわけないけど、僕でよければ」 「ハッハー、やったね。これで仕事仲間にからかわれなくて済むぞ」 「またそんなことを言って……でも、僕はジャケットなんて持ってきてないから、ジーンズでも入れるお店しか行けないよ」 「大丈夫、まかせて」 自然な仕草でウィンクをしてくる。 「……それから、今度はきちんとお金を払わせてね、アレッシオ」 「お金の心配なんかして、良くないね、カズマ。君はそんなこと気にする必要ないんだよ。僕は仕事をしていて、君は学生なんだから」 「そういうわけにはいかないよ。自分の分は自分で払う……そうでなければ、行けない」 「ひどいな、切り札を出したね。OK、OK、ヴァ・ベーネ。わかったよ、じゃあそうしよう。明日の8時にここまで迎えに来るから」 「場所を言ってもらえれば、そこまで行くけど」 「いや、大丈夫だよ。8時になったら下りてきてくれよ、カズマ。来なかったら窓に石をぶつけるからね」 「……時間に気をつけることにするよ」 「ハハハ、そうしてくれ」 アレッシオは笑いながら頷いて、またちょっと僕を見つめた。 「じゃあ、また明日」 「うん、8時に」 アレッシオはこっちを見たまま、後ろ向きに歩き出す。 「楽しみにしてるよ。約束を忘れないでね……カズマ」 「わかったってば、アレッシオ……チャオ!」 「チャオ、カズマ」 手をひらひらっと振って、彼はようやく背を向けて歩き出した。 僕は彼の背が角を曲がって消えてから、階段を上った。 お腹がいっぱいで、少し苦しかった。 →6 |
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