フロントで受付カードに記入をして、パスポートを渡して手続きを済ませ、僕はさらに階段を上って部屋に向かった。
 フロントで対応してくれたのはロレンツォという髭をはやした中年の男性で、イタリアなまりがかなりあるものの、丁寧な英語を話す人だった。人懐っこくあれこれ話しかけてくるのに返事を返しながら、受付カードの空欄を満たして渡すと、荷物はお部屋に運びましたよ、と言いながら鍵を渡してくれた。
 部屋は、朝見せてもらったのと同じものだ。
 ドアを閉めて鍵を掛け、それを枕もとのテーブルにポンと投げて、僕はベッドに仰向けに寝転んだ。天井をぼんやり眺めながら、ふうと溜息をつく。
 一人きりの空間にいるというのが、何だかすごく久しぶりな気がした。
 明日は、金曜日か。
 日曜日は展望台はやっていないから、ドゥオーモのクーポラに上るのなら、明日か明後日に行かなければいけない。その後だと、月曜日になってしまう。
 何をグズグズしているんだ、と口に出してみる。
 早く行ってしまえばいい。後回しにすればするだけ、気が重くなる。
 そう思ってはいるのだが、ずるずると先延ばしにして、結局そこには辿りつけないまま飛行機に乗り込む自分の姿が、たやすく想像できた。そんな結果だけは避けたい。
 暗いイメージを吹き消すように僕はベッドから下り、二重になったガラス窓を開けてさらに、緑色に塗られた木の鎧戸を開けた。冷たい風と一緒に、町のざわめきが部屋に流れ込んでくる。
 3階にあたる部屋の窓から下を見下ろすと、通りを行き交う人々がよく見えた。
 鎧戸を開けたままにして窓を閉めると、騒音は急にくぐもって小さくなる。その下にあるヒーターのスイッチを入れて、バックパックの中から一冊の本を取り出した。
 この本の前の持ち主が何度も繰り返して読み、そして僕も読み返して、すっかり古びてしまった一冊の分厚い文庫本。
 それはイタリアとギリシアに数年住んだ日本人作家の作品で、このふたつの国での暮らしぶりと、周辺諸国への旅行についてと、社会問題に対する作者の考えなどが書かれた、旅行記のようなエッセイのような不思議な本だった。
 誠司はこの本がとても好きで、ギリシアもなかなか面白そうな国だよね、とよく言っていた。
 彼は穏やかで物静かな性格の割に、けっこうトラブルには強い方だった。
 彼が取り乱したところはあまり見たことがなかったし、誰かと意見が衝突しても、言い争いになる前にさり気なくその場の雰囲気をコントロールして、うまく治めてしまうようなところがあった。
 それでいて、中学時代はけっこう夜遊びなんかもしていたみたいで、時々僕は「彼は一体どういう人なんだろう?」と考えさせられたものだ。でも、いざ彼が隣にいると、人から噂を聞いて感じた得体の知れなさなど影もなく消え去っていった。僕の知っている弓削誠司が、彼の全てだと思っていた。
 しかしもちろん、それは違っていたのだ。

 次の日、ドゥオーモの聖堂の中には入ったものの、結局クーポラに上らずにそこを出て、ウッフィツィ美術館に足を向けた。そしてそこに溢れる観光客やツアーの団体客にもみくちゃにされた挙句、へとへとに疲れてネットカフェへと避難し、それからホテルにもどって少しウトウトしてしまった。
 ハッと目を覚ますと、8時10分前だった。
 やばい、危ないところだったな。
 慌てて寝ぼけた顔を冷たい水で洗い、ロレンツォに部屋の鍵を預けてホテルの下へ降りる。
 まだアレッシオは来ていないようだ。僕は隣の店のショーウィンドウをなんとなく眺めた。どうやら文房具屋、というか雑貨屋のようだったが、店の灯りは落ちていて、そのせいもあってか随分貧乏くさく見えた。何処の町にもあるような、裏路地にある、やってるんだかやってないんだかわからないような古ぼけた店だった。だけど、よく見ると掃除だけは丁寧にしてあるようで、ショーウィンドウに並べられた万年筆や小さな地球儀や絵葉書の上には、ホコリひとつ見当たらなかった。
 ついついそれに見入っていると、ふいにすぐ後ろでクラクションが軽く鳴らされた。
 振り返ると、メタリックグレーの車の運転席の窓が空き、そこからアレッシオの笑顔がのぞいた。
「アレッシオ」
「ボナセーラ、カズマ。もしかして待たせたかな?」
「ボナセーラ。今、ホテルから出てきたところだよ」
「それなら良かった。さあ、乗って」
 僕は彼が車で来たことにちょっと驚きながらも、言われるままにアウディの助手席に乗り込んだ。
「さて、行こうか」
 車を発進させるアレッシオを、思わずちらちらと観察してしまう。濃紺のスーツに白いシャツを合わせていて、仕事が終わったからだろうか、ボタンを上の二つだけ外し、ネクタイをしていなかった。昨日の彼と違って何だかワイルドな感じで、僕はうーん、さすがだなぁとひそかに感心してしまった。だらしなくも、くたびれても見えないのは、やっぱり洋服文化の歴史の違いなのかな。そもそも欧米人の体に合うように、スーツって作られているんだもんなぁ。
 そんなことを考えていると、アレッシオがクスリと笑った。
「え……」
「何? カズマ」
「えっ?」
「さっきから、ずっと見ている」
 指摘されて、何もやましいことなんてないのに、僕は耳が熱くなるのがわかった。
「あ、その、スーツが」
「うん?」
「スーツが、格好いいなって。何処のブランドなのかなって思って」
「スーツ?」
 アレッシオは困ったような顔をした。
「それだけ?」
「それだけって?」
「スーツだけ? 格好いいのは」
 そんなことを言って、信号で止まったのをいいことに、ジッと僕に目をすえる。
「え……」
 僕は何て言葉を返したらいいのかわからなくて、なんだか急に気まずくなって、視線を泳がせた。
 アレッシオが溜息をつく音が聞こえた。
「何でもない、気にしないで。ほら、もう着くよ」
「え、もう着いたの?」
 ちょっとホッとしつつも、わざわざ車で来る必要はなかったのでは? そう思いながら、道路の脇に止めた車から降りた。
「もしかして、ここ?」
 目の前にあったのは、ちょっと高級そうなリストランテだった。こんなところ、ジーンズにスニーカーなんかで入れるんだろうか?
「そう、予約してあるから大丈夫だよ」
「大丈夫って……」
「ほら、中に入ろう」
 アレッシオがドアを開けて僕を促すので、恐る恐る中に足を踏み入れた。
 近付いてくるカメリエーレとアレッシオが会話をしている間、さりげなく他の食事客をチェックすると、けっこうカジュアルな格好の人もいるようだった。中には僕とそんなに歳の変わらなさそうな、スニーカーを履いたカップルとかもいて、ちょっと安心する。僕だけ場違いってことはなさそうだ。
 そこでの食事は、本当に楽しく、そしておいしかった。
 食べやすく切られた生野菜に、好みでオリーブオイル・塩・バルサミコ酢をかけて食べるサラダは、にんじんの香りと甘味が何とも言えなくて、そしてルッコラは日本で食べるのよりずっと味と香りが濃くて、僕は驚いた。サラダボウルにたっぷりと盛られたそれを、夢中になって全部食べてしまった。そしてフェットチーネに和えられたポルチーニ茸は、肉厚で歯ごたえがあり、歯で噛むとジューシーなスープと甘い香りが口いっぱいに広がって、それでいて優しい味だった。アリスタという豚肉のローストもニンニクの香りが効いていて食べ応えがあった。そしてもちろん、ワインもビックリするほどおいしい。
 アレッシオが説明してくれたところによると、最高品質のD.O.C.Gワインであるキャンティワインの中でも、キャンティ・クラシコとして分類される種類のもので、さらに黒い鶏、ガッロネーロのラベルがついたもので、さらに銘柄が……と、ワインにくわしくない僕としては、彼の簡単な説明だけども頭の中にクエスチョン・マークがたくさん浮かんできてしまった。
 だけど、その味が、日本で飲んだどのワインよりも豊かなのだけはわかった。と言っても、日本で高級ワインを飲んでいたわけでもないのだけれど。でも、後日サンタ・マリア・ノヴェッラ駅の裏手にあるスーパーで、日本円にして800円くらいのガッロネーロのラベルがついたワインを買って飲んでみたのだけど、それもすごくおいしかった。何でも現地で買うと安くておいしいってことだろうな。
 濃い色合いの赤ワインは、口に入れる前はすごくフルーティな香りがして、一口飲むと舌にビリッとした心地良い渋みが走り、そして喉をゆっくり滑り落ちていく。コクがあるってこういうことだろうか。辛口で重いワインなのに、こんなに飲みやすいなんて……と、ちょっとした感動を覚えてしまった。
 ワインですっかり口が滑らかになってしまった僕は、最後にエスプレッソで食事を終えるまで、ずっとしゃべり通しだった。アレッシオは僕の正面で、ずっと微笑みながら相槌を打ったり、驚いたように目を丸くしてみたり、質問やからかいを口にしたり、声を上げて笑ったりしてくれていた。
 そして驚くべきことに、僕は誠司の少年時代のフィレンツェでの失敗談や、笑い話まで彼にしてしまっていた。彼は今どうしているの、と聞くアレッシオに、病気で亡くなったんだ、と告げると、彼は「つらいことを聞いたね」と、優しい目を見せた。そんなこと、今まで誰にも話したことがなかったのに、何故だろう。
 アルコールの力と、旅先での気軽さというのもあったのだろうか。
 いや……それだけじゃない。
 けしてそれだけの理由じゃないというのは、酔っ払った頭でもしっかりとわかっていた。










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