僕達が笑いながら車に乗り込んだのは、夜の12時近くだった。 「アレッシオ、駄目だよ、酔っ払い運転なんてさ……」 それでも僕が理性をふりしぼってそう言うと、アレッシオは眉をひょいと上げた。 「ワインと美味しい料理、そして夜更かしを好むイタリア男に、そんな忠告が効くと思うかい?」 「だけど、警察に見つかったら……」 「そんなことを気にしているの? 大丈夫だよ。バスの運転手だって飲酒運転をする国だよ、ここは」 それに、とアレッシオはウィンクをする。 「この車には、エア・バッグもついている」 そういう問題だろうか? と思ったけれど、アレッシオが酔っ払っている様子は全くなかったので、僕は引き下がった。 「でも、君には少し飲ませすぎたかな、カズマ」 アレッシオがそう言って、手を伸ばしてくる。 「頬が、こんなに赤い……」 長い指の先が僕の頬に触れた途端、僕は思わずビクッとおおげさに身体を震わせてしまった。それは怯えているみたいな、拒否の仕草だった。 アレッシオはハッと息を飲んで、「ごめん」と詫びた。 それから、中途半端になった手を握り締めて、小さく呟く。 「……もし違っているのなら、ごめん。カズマ……君が話していた、亡くなった友人というのは……彼は、もしかして君の恋人だったんじゃないのかい」 僕は俯いた。 答えないことが肯定の意味になると知っていても、何も言えなかった。 アレッシオは黙ったまま、車のエンジンを掛け、アクセルを踏んだ。 数分でアウディはホテルの前まで着いて、車を止めた彼が口を開いた。 「……僕の会社は、ここから車で20分くらい行ったところにあるんだ」 話の意図がわからずに、僕は前を向いたままの彼の横顔を見つめる。 「昨日、わざわざ車に乗ってあそこの郵便局まで行ったのは、もしかしたら君に会えるかもしれないと思ったからだ」 「……え?」 「もう一度、君と会ってみたいと思っていた。フィレンツェの美観地区は、とても狭い範囲に限られている。観光客が好みそうなところに行けば、君と会える確率が高いことはわかっていたんだ。本当は、昼休みを使って観光スポットを回るつもりだったんだ。でも、思ったよりも早く君を見つけた」 アレッシオは、ゆっくりとこちらを見つめた。暗い色の瞳が、甘い色を浮かべて僕を射抜く。 「レプッブリカ広場で、僕はひと目で君がわかった。僕の目に、君は他の誰とも違って見えた。悲しげで、孤独で、そして綺麗で……話していて、さらに君は僕にとって特別な存在になっていった。君は幼く見えるけれど、精神はとてもしっかりしていて、自分自身の意思というものを持っているね。君はとても感じのいい人で、よく笑うし、ジョークも言うし、明るく振舞っているけれど、何か大きな悲しみを抱えている。そんな君を……ずっと見つめていたいと思った」 「……だけど、だけど、僕達は会ったばかりだし、それに」 「君にとって時間というのは、そんなに重要なことなのか? もちろん、僕はまだ君のことをよく知らない。それでも、君に愛情を感じるんだ。とても強く」 「……アレッシオ、僕は……僕は、だけど」 「今すぐに答えを求めるつもりはないから、安心して。こんなに早く告げるつもりじゃなかったんだが……困らせてしまったね、ごめん」 「……僕こそ、ごめん。おやすみ」 僕はそこから逃げ出すように、車のドアを開けて外に飛び出した。アレッシオも同じように車を降りて、立ち尽くす僕の肩をそっと掴む。 「……カズマ、今夜はつきあってくれてありがとう」 「あ……ううん、僕の方こそ、あの」 「また……また、僕と一緒に過ごしてくれるかい?」 僕は少し迷ってから、コクリと頷いた。アレッシオはスーツの胸ポケットから名刺とペンを出すと、裏に数字と文字をいくつか走り書きした。 「僕の携帯の番号と、Eメールアドレスだ。……電話をくれると、約束してくれ、カズマ」 「うん……電話、するよ」 「明日は?」 「……明後日でもいいかな。その……何だか頭が混乱して」 「わかった。待っているよ」 アレッシオは僕の手に名刺を握らせると、そのまま僕をぎゅっと抱きしめてきた。 焦る僕の左右の頬に音を立てて軽くキスをして、すぐに腕をほどく。 「ボナ・セーラ、カズマ……おやすみ」 「おやすみ、アレッシオ。……帰り、気をつけて」 「グラッツェ。……さあ、ホテルに入って、カズマ」 「あ、うん」 「君がホテルに入るのを見届けたら、僕も帰るよ」 頷いて、階段に足を掛け、僕は彼を振り返った。 アレッシオは車にわずかにもたれるように立って、手をかざした。 「チャオ、カズマ」 「……チャオ、アレッシオ」 僕も手を振って、階段を上った。 フロントで鍵を受け取り、真っ暗な部屋に戻る。何となく電気をつけないまま窓辺に近付いて、ドキッとして声を出しそうになった。 ……アレッシオ! 彼から僕の姿は見えていない筈だった。だけど、彼はまっすぐこちらを見上げている。僕は息を殺して、半開きのままの鎧戸に隠れるようにして彼を盗み見た。 やがて彼は、力なく首を振ると、車に乗り込んだ。 テールランプが、夜のフィレンツェの町に消えていく。 途端に身体の力が抜けて、僕はそのまま椅子に座り込んだ。すっかりアルコールが抜けたような心境だったけれど、顔は熱かった。僕は冷たい窓ガラスに頬を押し付ける。 何故だか、泣きたいような気分だった。 でも、もちろん僕は泣けなかった。 ――誠司が死んだ時だって、涙ひとつこぼせなかった。彼があのおそろしい病気を患っていると、わかった時も。 心臓が強く引っ張られるような痛みさえ覚えて、引きちぎれそうだった。それでも僕の瞳は乾いたままだった。 「誠司……誠司、せいじ……」 どうして僕を置いていった? その胸にすがりついて、穏やかな微笑みを浮かべる彼を強く揺さぶってやりたかった。 アレッシオが、僕を好きだと言ってくれる。だけど僕は、それに答えることはできない。 もう君はこの世にはいないのに。 だけど、僕の心の中には、まだこんなにも強く君が息づいている。僕はその面影が薄れていくのが怖くて、必死になって記憶にしがみついている。 余所見をしたら、君が消えていってしまうような気がして――。 二度も君を失うなんてこと、僕には絶対に耐えられない。 僕はすっかり頬が熱を失っても、強く窓にそれを押し当てていた。 まるでその冷たさが、涙の代わりだというかのように……。 →8 |
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