同性に恋愛感情を持ったのは、生まれて初めてのことだった。
 そして、恋愛と呼べるようなしっかりとした愛情を感じたのも、初めてだった。
 誠司とはずっと親友と呼べるような関係だったし、悩まなかったと言えば嘘になる。
 でも彼がくれる特別な優しさや、僕と会う時に見せる嬉しそうな笑顔や、そして誰もいない時に僕に向けられるもの言いたげな視線が、僕に「もしかしたら」という期待を抱かせた。
 彼が受け入れてくれるのならと思うと、タブーを犯す恐怖は薄れた。
 もちろん、それが僕の単なる勘違いだという可能性は、充分にあった。
 一人で夜彼のことを考える時など、どうしても思考は悪い方へ悪い方へと傾いて、ひどく落ち込んだりもした。
 だけどそういう時に限って、誠司はあの視線をよこした。
 ――たとえば、放課後の教室。
 赤っぽいオレンジ色に染まった教室で、ゲラゲラ笑いながらとりとめもない話をよくした。友人やクラスメイトが一人、また一人と帰っていって、気がつくと僕ら二人になっていた。
 ふと会話が途切れた時、誠司は何も言わずに僕を見つめた。
 最初のうちは、その視線にひどく落ち着かない気分になったものだった。
 大人びた誠司に、自分の子供っぽさを見抜かれているような気まずさ。
 そして自分の気持ちを自覚し始めてからは、彼にそれを悟られやしないかという恐怖。
 だけどそれになじんでからは、僕は彼の視線を浴びながら、胸がうずくような、少し苦しいような、それでいて穏やかなやすらぎさえ感じるようになっていた。
 もし、彼が僕に恋愛感情を持っていなかったとしても。
 それでも彼は、僕をとても大切に思っているに違いない。
 彼がそういう意味で僕の気持ちに答えられなかったとしても、けして僕を軽蔑したりしないだろうし、避けたりもしない筈だ。きっと僕達は、ずっと親友であり続けられる――それも、一番の。

 そして、高校の卒業式がはねた後の、教室。
 写真を撮りあい、打ち上げの話やなんかで盛り上がるクラスメイトの中、誠司がそっと僕にあの視線をよこしてきた。ハッと息を飲む僕に少し頷いて、すっと教室から出て行く彼の後姿。さりげなくコートとバッグを手に持っている。僕も慌てて、その後を追いかけた。帰り支度を見咎めた友人から、「もう帰るのか?」と声がかかったけれど、「打ち上げ前に、一回家に戻る」と言い捨てるようにして騒がしい教室を後にした。
 誠司。
 昇降口で彼に追いついた。
 誠司はちょっと嬉しそうに僕を見ると、「行こう、一真」と言った。僕は黙ったままその後について行く。もう必要のない上履きは捨ててしまいたかったけれど、生徒が皆そうしたいと考えるのはお見通しらしく、いつも置いてあるゴミ箱は撤去されていた。仕方なく、教室で配られたビニール袋に古びた上履きを入れ、スポーツバックに詰め込む。そんな動作をしながらも、僕の心臓は激しく脈打って、今にも胸の皮膚を突き破って外に飛び出してしまいそうだった。
 何故だか誠司の顔を見るのが怖くて、地面を睨みながら歩いた。視界の端に誠司の黒いローファーをとらえて、ただそれだけを見失わないように。
 僕らはケンカをしている子供達のように、むっつり黙ったまま歩いた。黙ったまま電車に乗り、そしてまた歩いた。
 誰も居ないらしい誠司の家まで行き、彼の部屋に入った途端、誠司は僕をぎゅっと抱きしめた。
 僕は息を止めた。おそるおそる彼の背中に手を回す。それを感じた誠司が、ちょっとだけ腕の力を緩めた。僕はゆっくりと息を吐いて、それから掠れた声で彼の名を呼んだ――「誠司」。
「ずっと、好きだったんだ」
 誠司が僕の耳元でそう囁く。
「本当は、打ち明けるつもりはなかったんだけど……でもやっぱり、我慢できなかった」
「僕だって」
 僕は誠司の顔を見上げた。
「僕だって君が好きだ」
 眼鏡ごしに、じっと見つめ返してくる誠司。
「誠司のことが、好きだ」
「僕はゲイだ。男しか好きになれない。そういう意味だよ」
「僕だって、女の子を好きになったことなんてない」
「……たぶん一真は、まだそういうことに目覚めていないだけだと思う。一真はたぶん、ゲイじゃない。きっともう少し経てば、わかってくるよ」
「そんなことない! だって、君が好きだって言ってるだろ」
「うん、それは……すごく嬉しい。もしかして、って思ってたけど。やっぱり、諦めたくないな」
 誠司が本当に嬉しそうに笑うので、僕は何だか顔が熱くなるのを感じた。
 だって無理もない。これが生まれて初めての恋愛で、生まれて初めての告白なんだ。
「だからさ、ゆっくり行こう」
「え?」
「僕は、焦らないから。一真が好きだって言ってくれた、それだけでかなり満たされた気分だよ。だから、ゆっくりつきあっていこう」
「つきあう……」
 そうか。僕達、つきあうんだな。ああ、どうしよう。なんだか恥ずかしい。恥ずかしくて、嬉しい。すごく嬉しい。
「僕は、正直言ってそういうの慣れてないから……誠司にまかせる、よ」
「わかった」
 誠司はにっこり笑って、また僕をぎゅうっと抱きしめた。
 僕はゆっくり目を閉じて、その腕の力を全身で感じていた。
 誠司が、大好きだ。
 その想いだけで、何でもできると思った。
 彼の隣にいられるだけで、幸せだったのだ。


 通りに設置してある公衆電話からだと騒音がひどいので、僕は電話を掛けにレプッブリカ広場まで歩いていくことにした。タバッキで購入したテレフォンカードの端を切り落とし、欠けた方から挿入口に差し込む。0081に続いて、手帳にメモした番号を押していく。
 しばらくの小さなコール音の後、女性の声が出た。
『はい、弓削でございます』
 僕は一瞬、目を閉じて息を深く吸い込んだ。
『もしもし?』
「……もしもし、おばさん? あの、僕です。相澤です」
『……まあ、一真くん! あらまあ、久しぶりねぇ……どうしたの? こんな時間に』
 明るい声でそう言われて、ハッとして腕時計を見ると、昼の3時を少し過ぎたところだった。日本は今、夜11時過ぎだ。
 しまった、と唇を噛む。きちんと時間を考えて電話するんだった。
「あ、すみません。夜遅くに……」
『ううん、それは全然かまわないんだけれど。どうせ起きていたしね。でも、どうしたの? 今、外にいるの?』
「はい。あの……おばさん、僕、今フィレンツェにいるんです」
『えっ? ……』
「あの、フィレンツェに来ていて」
『……ああ、ごめんなさいね。ちゃんと聞こえたんだけれど。あんまりびっくりしちゃって……そう、そうなの。フィレンツェにいるの……お友達と旅行かしら?』
「いえ、一人なんです」
『あらそう……まあ、一真くんも思い切ったことするわねぇ。おとなしくてかわいい子だと思ってたけど、やっぱり男の子なのね。たくましいこと』
 おばさんが電話の向こうで微笑んでいるのが、目に見えるようだった。きっと優しげに目を細めて、誠司そっくりの笑顔になっているのだろう。
「そう、それで、おばさんも昔ここに住んでいたでしょう。だから、見所とか教えてもらおうと思って」
『見所って言ったって、ガイドブックに載ってるようなことしか言えないんだけれど……でも、そうねえ。もし時間があるのなら、サン・マルコ教会も回ったほうがいいんじゃないかしら。地味なところだけど、フラ・アンジェリコのフラスコ画がきれいだから。知っているでしょう、‘受胎告知’の絵。有名な絵だけど、目の前で見るとほのぼのした感じでいいわよ。小さな小さな中庭があって、大きな木が一本生えているのも、かわいくて好きでね』
「へえ……行ってみようかな」
『そうしてごらんなさいな。あとは、ミケランジェロ広場からの眺めもいいし。ちょっと歩くけど、天気が良ければ気持ちがいいわよ』
「そうですね。時間はたっぷりあるから、足を伸ばしてみます」
『そうね。ああ、あと、一真くん、もうサンタ・マリア・デル・フィオーレには行ったの?』
 僕はぎゅっと目を瞑った。
「……ドゥオーモのことですよね。カテドラーレの中には入りました」
『あら、それじゃあクーポラにはまだ上ってないの? 駄目じゃない、あそこからの景色を見なきゃ』
「……やっぱり、そうですよね」
『もちろんよ。誠司はあそこからの眺めが大好きでね、よくせがまれて一緒に行ったものよ。何しろ長い階段だから、私はそんなに何度も行きたくなかったんだけど、傾斜がきついから、危なくて一人で行かせるわけにもいかなくてね。だから、ひいひい言いながら一緒に上ったわよ。あの子がずうっと先まで行って、おかあさん早く早くって急かせるのを、死にそうになりながら聞いていたものだわ』
 おばさんはおかしそうにそう話してから、溜息をついた。
『……ありがとうね、一真くん』
「えっ?」
『あの子のこと、思い出してフィレンツェに寄ってくれたんじゃない?』
「……え、あの、いや、そういうわけでもないんですけど」
『それならいいんだけれど。あなたは優しい子だから、誠司の思い出に引き摺られなければいいと思っていたのよ』
「……」
『病院にも、何度も何度もお見舞いに来てくれて、どれだけ嬉しかったか。一度きちんとお礼を言いたかったのけど、何しろお葬式だ何だでバタバタしていて、私も気が動転しちゃっていて……それに、あなたに聞かなきゃいけないこともあったし』
「……何、ですか?」
『ねえ、一真くん。あなた……検査はしたの?』
 僕はその言葉に、思わず受話器を取り落としそうになった。










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