「検査……って……」
『正直に答えてちょうだい。意味は、わかるわね?』
 責める色のない、おばさんの穏やかな口調に、驚きと怯えに固まっていた体が徐々にほぐれていった。
「あの……一応、しました。陰性でした」
『そうなの……ああ、そうなの。よかった……それだけが、本当に気がかりでね。怖くて自分から電話を掛ける勇気も出なかったのよ。もしそうだったら、と思うと、あまりにもあなたのご両親に申しわけなくて』
 気付いていたのか。
 彼女は、誠司と僕との関係に、気付いていたのだ。
「……いつ、から」
『あの子の性癖……と言うのかしら、その、誠司が男の人に興味があるんだっていうことは、薄々わかってはいたのよ。母親ですからね。小さい頃から女の子に興味を示さないもんだから、はじめは男の子なんてそんなものかと思っていたけれど、段々もしかしてこれは、って思うようになって。それでも、あの子から言い出すまでは黙っていようと思っていたの。こちらから聞くのが怖かったというのもあるかもしれないけれど』
「……そうだったんですか」
『それが、あんなことになるなんてね。きちんとあの子の話を聞いて、認めてやればよかった。……夜、家を抜け出していたようなのも気がついていたけれど、ちょっと早熟なところのある子だから……それが、高校に入ってから落ち着いたでしょう。一真くんがうちに遊びに来た時に、ああ、この子がいるから誠司は大人になったのかしらって思っていたのよ』
 僕は、もう何も言葉を返すことができなかった。相槌すら打てなかった。
 ただ黙って、静かに話すおばさんの声を聞いていた。
『……ああ、ごめんなさいね。旅先の電話でこんな話をしてしまって。そちらは昼なのよね。こっちは夜遅くなものだから、ついつい思い出話をしてしまうわ。……一真くん、よかったら一度ゆっくりと話しましょう。うちに来るのがいやだったら、外でもいいのよ。こんなおばさんで悪いけれど、デートでもしましょう』
 明るい声で気持ちを切り替えるようにそう言われて、僕は見えもしないのに何度も頷いていた。
「はい。はい、是非」
 おばさんは受話器の向こうで多分にっこりと笑って、「ありがとう」と言った。そして、体調に気をつけること、フィレンツェはローマより治安はいいけれど、貴重品には気をつけること、など細かい忠告をたくさんくれた後、「旅を楽しんできてね」と言って、電話は終わった。
 僕は受話器を戻した手をそのままに、目を閉じて震える息を吐いた。
 何だか気分が高揚して、身体中がぶるぶる震えている。
 気を抜けば息が荒くなってしまいそうだったので、必死に自分を抑えながら、ゆっくりと深呼吸を繰り返した。
 そうでもしなければ、大声で叫んでしまいそうだった。
 数分そのまま息を吸ったり吐いたりした後、僕はまた受話器を取って、テレフォンカードを差し込んだ。そして、アレッシオからもらった名刺を取り出す。
 すぐに、朗らかな男の声が出た。
『プロント』
「……」
 僕はとっさに、なんて言ったらいいかわからなくて口篭った。プロントって、イタリア語だよな……もしもしって意味ってこと?
『キ・エ?』
「……あの、一真です。ソーノ・カズマ」
『カズマ? 本当にカズマなのかい?』
「うん。電話して、大丈夫だったかな」
『もちろんだよ。待っていた……電話をありがとう、カズマ』
「うん」
 ストレートな言葉に、照れ臭くなる。
『今、何処にいるの?』
「レプッブリカ広場。アレッシオは、会社?」
『そうだよ。もうすぐ、昼休み。ランチは食べた? カズマ』
「ううん、これから」
『それじゃあ、もう少しだけ待っていて。あと少しで出られるんだ』
「あ、いや……今日は、予定があって」
『……そう』
 ちょっと気落ちしたふうの彼の声に、僕は慌てる。
「その、明日なら。アレッシオ、明日のお昼はどうかな」
『僕を誘ってくれているの?』
「そうだよ。明日のランチを一緒にどうですか?」
『もちろん、喜んで』
「よかった」
『今日は何処かに行くの?』
「うん。知り合いに教えてもらった場所に行ってみようと思って」
『それじゃあドゥオーモには、まだ行かないの』
「行くよ」
 僕は条件反射のように、そう答えていた。
 そう、求めていた言葉だってもらったのだ。誠司の母親に、僕は背中を押してもらいたかったのだ。
「行くよ、明日」
 だから、決めたんだ。明日の朝起きたら、ドゥオーモに上る。
『ランチの前に?』
「うん」
『それじゃあ、正午に間に合うように上るといいよ』
「12時に?」
『うん。12時には、上についているように』
「どうして」
『それは、上ってからのお楽しみ』
 悪戯っぽくウィンクをする彼の顔が、目に見えるようだった。
「わかった。じゃあ、お言葉通りそうしてみるよ」
 本当は朝イチで行くつもりだったのだけれど、それもいいかもしれない。
『階段が長いから、気をつけて』
「うん。ありがとう、アレッシオ。それじゃあ、また明日」
『うん、明日の昼に』
「仕事、頑張って」
『ありがとう。明日のこのくらいの時間に、また電話して。それで、待ち合わせをしよう』
「わかった」
『今すぐにでも君に会いたいよ、カズマ』
「……アレッシオ」
『でも明日まで我慢する。もし電話をくれなかったら、僕は泣くからね』
 真剣な口調で冗談を言うので、僕は声を上げて笑ってしまった。
「ちゃんと電話するよ。貴方を泣かせたりはしないから、安心して」
『きっとだよ。カズマ』
「OK、約束する。それじゃあね」
『チャオ、カズマ』
「チャオ、アレッシオ」
 電話を切ると、テレフォンカードの残量はほとんどなくなっていた。
 冬の広場で長電話をしていたから、すっかり指がかじかんでいる。だけど頬は温かかった。笑ったからだ。
 アレッシオと話すと、いつも声を上げて笑っている気がする。
 僕は冷たくなった手を擦り合わせて、ちょっと微笑んだ。
 明日、ドゥオーモに上る。
 憂鬱だった筈なのに、アレッシオの言っていた「お楽しみ」が気になって、少しわくわくしている。
 小さい頃、おばさんを急かしながら階段を駆け上っていた誠司。
 そこに行けば――幼い君に会えるのだろうか。
 今も、君はそこにいるんだろうか?



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