展望台には、僕の他に四組ほど観光客がいた。 若いヨーロッパ人の夫婦が一組と、アジア系の顔立ちの女性の三人組、イタリア人の中年女性の二人組、そして親子と思われる父親と中学生くらいの息子の二人。 僕は小さなベンチに腰掛けて、ぼんやりと彼らの様子を眺め、そして空を見上げた。 そうしているうちに、さっきまでの晴れ晴れとした気持ちは何処かへ消え去り、僕はまた孤独の中に座り込んでいた。楽しげにはしゃぐ人々の中で、どうして僕の心はこんなにも静まりかえっているのだろう。 しかしその孤独から抜け出したいとも思わなかった。 ただそこに身体をひたして、しんとした静寂の中に残り続けていたかった。 ふと、僕の目の前を一匹の羽虫が飛んでいった。 とても小さな、ちっぽけな虫。 たぶん僕か、他の誰かの衣服にくっついて来てしまったのだろう。 あの虫は、一体どうやって地上に帰るのだろうか? そもそも、自分がこれ程の高さへと来てしまったことに、気がついているのだろうか? こんな上空に他の虫が飛んでいる筈もない。 このまま風に吹き飛ばされてしまうのか、また長い長い階段を小さな身体で飛んで下りて行くのか――それとも、たった一匹で、頭上に広がる空と、遥か下に佇む街並みを眺めながら、その短い一生を終えるのだろうか。 まるで子供の頃に聴いた、悲しい童謡みたいだ。 そして僕もまた、この虫のようなものなのだ。 誠司の面影にしがみついて、こんな高さまで来てしまった。だけどやはり、ここにも彼はいないのだ。当たり前のことだ。彼は、死んでしまったのだから。 だけど僕は未だにそれを認められずに、楽しげに笑う人々や、「いま」を生きている周囲を眺めながら、そこに入れず、入ろうともせず、ここで一人で足踏みを続けているのだ。ずっと。 誠司。 僕は自分がどうすればいいのかわからないんだ、全然。 自分がどうしたいのかもわからないんだ。 君を覚えていたいのか、忘れてしまいたいのかもわからないんだ。 君とは違う人間を好きになっていいのか、好きになりたいのかもわからないんだ。 それに――。 君が本当に僕を好きでいてくれたのかも、わからないんだ。 僕は両手で顔を覆って、深く溜息をついた。 ――誠司と僕とが恋人同士だなんて、一体誰がわかっただろう? 彼の母親は気がついていたようだけれど、僕らをしっかりと側で観察していたのなら、たぶん彼女はその考えを否定しただろう。 僕らは、セックスをしたことがなかった。 それだけじゃない。キスだって、数える程しかしたことがなかった。それも、唇を触れ合わせるだけの、ごく軽いものを。 それには原因があった。 彼は病気が原因で亡くなったが、それに感染していることに気がついたのは、僕らが告白し合ったわずか数日後のことだったのだ。 誠司は、彼なりに自分の性癖に悩みがあったようで、中学の頃は自分を肯定したいあまりに、夜の町を出歩いて色んな男性と身体を重ねていたのだという。受験の時に足が遠のいてからは、そういうこともなくなっていたようだったが、卒業前に念の為に病院に検査におもむいたのだ。 結果は、陽性だった。 彼は、HIVに感染していたのだった。 あの頃のことを思い出すと、今でも胃が引き絞られるような感覚を覚える。 誠司はショックを受け、落ち込んでいたが、けして取り乱した様子を見せなかった。 それが逆につらかった。 僕はと言えば、ドラマやニュースの中だけの存在だと思っていた病気がごく身近にあって、それも自分の好きな人が感染しているのだという事実に、ただ愕然として、ひどくうろたえてしまった。 彼が見知らぬ他人と身体だけの関係を結んでいたという、そのこともショックだったし、何よりもその病名の恐ろしさに、心も身体も凍りついてしまった。 誠司は、僕に友達に戻ろうと言った。 ただでさえ同性同士というのは不毛な関係なのに、こんな病気にかかった自分の相手をさせるわけにはいかないと。僕はその言葉にもショックを受けた。 僕は病気は怖かったが、それでも誠司のことは大好きだった。 せっかく思いが通じ合ったというのに、彼を諦めるなんて考えもしなかった。 だけど、誠司は違うのだ。 そう思うとくやしくて悲しくて、ずいぶんと彼をなじった。 今思い出すと、自分を絞め殺してやりたくなる。 彼がつらくなかった筈がないのだ。誰よりも彼こそがつらかった筈なのだ。 僕は彼を責め、かき口説いた。 そしてついに彼は折れ、僕らは恋人同士という関係を続けることにした。 ただし、肉体関係だけは結ばないと、誠司に固く約束させられて。 たとえ性交渉を持ったとしても、HIVが確実に相手に伝染するわけじゃない。 それに、口中に傷がない限りキスだって可能だし、コンドームを用いればセックスだってできるのだ。 でも誠司は頑としてそこは譲らなかった。 万が一、億に一の可能性だとしても、ゼロではない限り、そんな危険は冒せないと。 それこそが彼の愛情表現なのだと、その時の僕はなかなかそう思えなかった。 それから彼が亡くなるまでの約一年は、ひどく苦しい時間だった。 僕らは常に悩み、悲しみ、人生の理不尽さに怒っていた。 だけどそれと同時に、たとえ恋人同士として触れ合うことがほとんどなくても――誰よりも一番近い存在として、彼の側にい続け、彼の優しさと愛情を独り占めできることは、この上のない喜びだった。 僕らはまるで、幼稚園生の初恋のように清らかで、老夫婦のように穏やかな関係を続けた。時にそれは深い絶望となって僕らを苛んだけれど、それでもギリギリのところで幸せを感じていた。 彼が亡くなった時、僕は自分の一部が死んだのがわかった。 誠司は、僕の一部を持っていってしまったのだ。 →12 |
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