ひたすらに暗く沈みこんでいた僕は、突然何かに呼ばれたような感覚を覚えて、顔を上げた。
 腕にはめた時計を見ると、12時一分前だった。
 そう言えば、12時に何かがあるようなことを、アレッシオが言っていたっけ。
 僕は我に返った思いでゴシゴシと顔を擦ると、ベンチから立ち上がった。
 随分長いこと座り込んでいたような気がする。
 ううん、と身体を伸ばしてから、僕は手すりに近寄った。
 そこに手をかけた時、すぐ側にそびえたつ、ジョットの鐘楼の鐘が大きな音で鳴りはじめた。
 うわあ、すごい迫力……。
 そう思って聞き入っていると、まもなくあちこちの教会が競い合うようにして鐘を鳴らし出した。
 360度、あちらこちらの教会から時を告げる鐘の音が鳴り響く。
 冬の張り詰めた空気の中、それぞれに一定の間隔を持つ音が響いていき、町に吸い込まれるのが目に見えるような気さえした。
 すぐ近くから、はるか遠くから。
 大きな音、小さな音。カーンカーンという高い音、ゴーン、ゴーンという低い音。
 共鳴しあい、重なり合い、時が連なっていく。
 ひだまり色の街並みに、時の音が溶け込んでいく。
 僕は、気がついたら涙を流していた。
 感動したのだろうか。
 頭が痺れたような感じだ。
 その確かな音は、僕の心をゆっくりと、でもしっかりと揺さぶった。
 それは、まるで許しの音のようだった。
 何もかもを知りながらも、僕を包み込んでくれる音。
 きっとそれは誰の上にも平等なのだ。
 どんな善人にも、どんな悪人にも、教会の鐘の音は時を告げてくれる。
 臆病で、後ろ向きで、卑怯で、いじけた僕にさえも、時を与えてくれる。
「一真」
 ふいに、誠司に名前を呼ばれて振り返った。
 そこには、コートを腕に掛けたアレッシオが立っていた。
「カズマ……どうしたの? 何故泣いているんだ」
 驚いて近寄ってくるアレッシオを見上げて、僕は次々と溢れてくる涙を感じていた。
 ああ、涙って熱いんだな。
 ずいぶんと久しぶりだから、そんなことも忘れていた。
 アレッシオは大きな乾いた手で、僕の涙に濡れた頬を撫ぜる。
「いったい、何があったんだい」
 心配そうなアレッシオに、僕は泣き顔のまま笑いかけた。
「……教えてくれてありがとう、アレッシオ」
「えっ?」
「12時の、クーポラの素晴らしさを。この鐘の音を……聞けてよかった」
 アレッシオはきれいな瞳で僕をじっと見つめた後、手を伸ばして優しく抱擁を与えてくれた。
 冷たく、ザラリとしたスーツの感触を頬に感じて、僕は慌ててそこに手を掛けて逃れようとした。
「ダメだよ、アレッシオ。スーツが涙で濡れてしまうし……それに、人が見ている」
「お願いだから、そんなことを言わないでくれ、カズマ。僕のスーツなんかどうだっていい」
 アレッシオは少し固い声でそう言った。
「もし人の目が気になるのなら、今だけ君は女の子ってことにすればいい。カズマ、君は女の子に見えないこともないからね」
 だけど、すぐに悪戯っぽくそう言って、片手に掛けていたコートで僕を包み込んだ。コートごしにぎゅうっと抱きしめられると、アレッシオの香水の匂いがいつもより強く感じられた。
 僕を包む、しっかりとした大人の男の身体。
 その存在のあまりの確かさに、僕はその場に崩れ落ちてしまいそうなほどの安堵を感じた。
 この人は健康なんだ。僕はもう、いつこのぬくもりを喪ってしまうのかと、毎日怯える必要はないんだ。もう、好きな人の死を恐れることはないんだ。
 ……誠司、誠司。
 僕は君のことをとても好きだったけれど、同時に憎んでいたのかもしれない。
 けして僕に深く触れようとしない君を。
 僕を置いていってしまう君を。
 いつも遠くを見ている君を。
 僕を好きだと言いながら、自分が死んだら早く自分を忘れて、他の人を好きになってくれと頼む君を。
 そしてそんな自分を、誰よりも僕自身が強く憎んでいた。
 だけど、誠司。
 僕はもう自分を許していいんだね。
 一人で勝手に苦しんで、自分で自分を傷つけて殻に篭っていた僕だったけれど、もう全てを解き放つことにするよ。
 君が愛した、フィレンツェのこの空に。



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