僕らはそれから、ゆっくりと時間を掛けて下へおりて行った。
 長く急な階段というのは、上るときよりも下りる時の方が怖いに決まっている。やけに滑る足元と、目の回るような高さを見下ろしながら、僕は一段一段慎重に下りていった。
 死にたくない、と強く思った。
 今、この時だけは死にたくないと。
 もっともっと生きていたい。まだやりたいことがたくさんあるんだ。
 アレッシオは僕の手を取って先に行きながら、何度も何度も振り返りながらエスコートをしてくれた。
 そんな彼が頼もしくもあり、大袈裟すぎるようでおかしくもあり、だけどやっぱり嬉しかった。
 下りは誰にも会わないまま、僕らはついにその長い階段を下りきった。
 ようやく地面に足が着いた時、安堵の余り体温が一度くらい上がったんじゃないかと思うくらいだった。
 そんな僕をアレッシオが笑みを浮かべて見つめている。
「大丈夫? カズマ」
「大丈夫……だけど、ああ、何だか、安心したらお腹がすいちゃったよ」
 本当は、泣いたらお腹がすいちゃった、だ。
 アレッシオもたぶんわかっているだろうな。照れ臭い思いで彼を見上げる。
「じゃあ、何か食べに行こうか」
「うん。あ、だけどアレッシオ……」
「何?」
「仕事は? 昼休みにはまだ早いでしょう、もしかして途中で抜けてきたんじゃないの?」
 なんだそんなこと、という風に、アレッシオは肩をすくめた。
「今日はもう仕事は終わりだよ」
「えっ?」
「今日は、本当は有給の筈だったんだ。ただ、僕でなきゃいけないことがあって、ちょっと朝だけ会社に顔を出しただけで……このところ、引き継ぎだなんだですごく忙しかったけど、もうそれも大方済んだからね。日本に行くまでは、のんびりしたもんだよ」
 アレッシオはそんな風に言うけれど、僕はそんなわけにも行かないだろうと思った。仕事で日本に行くのだから、しかも前彼が言っていたように事業を拡大するのならば、準備で大忙しのはずだ。
 だけど、彼がその忙しさを隠すのなら、僕もそれに気がつかない振りでいよう。僕に気を使わせまいとする、それも彼の優しさなのだから。
 それにやっぱり、彼といられると思うと嬉しかった。
 僕の顔をじっと見ていたアレッシオが、握ったままの手に力を込めた。
「もし良かったら、涙のわけを聞かせてくれないか」
 僕はハッとして、彼の深い色の瞳を見つめ返した。
「君の泣き方は、静か過ぎる。静かで、そして淋し過ぎる……君が一体どんな悲しみを抱えているのか、僕は知らない。それをこんな風に問いただすなんて、不躾だというのはわかっている。でも、君はそれを誰かに話す必要があると思うんだ。そうでなければ、君は悲しみと孤独に押し潰されてしまいそうだ」
 そして、とアレッシオは続けた。
「できれば、僕がその‘誰か’になりたい」
 真摯な言葉に、胸が熱くなった。
 アレッシオが、僕の心に寄り添おうとしてくれている。ただの通りすがりの旅行者としてではなく、共に道を歩いていく相手として僕のことを想ってくれている。
 氷が陽の光を浴びてゆっくりと溶け出すように、僕の感情のこわばりが解けていくような気がした。
 頑なに保っていた秘密と孤独を、彼になら打ち明けられると……そう思った。
「……長い話になるよ」
 僕がぽつりとそう言うと、アレッシオはにっこり笑った。
「かまわないさ。何しろ今日は、時間がたっぷりある。一人じゃ暇を持て余すほどにね」
「アレッシオを、嫌な気持ちにさせる話かもしれない」
 アレッシオは顔に笑みを乗せたまま、僕の目を覗き込んだ。
「僕はね、カズマ」
 それはとても優しい眼差しだった。
「君を完璧な存在だとは思っていない。良いところがあれば、悪いところもあるときちんとわかっているよ。好きな人の悲しい話を聞くのは、もちろん楽しいことではないね。……だけど、もし君が僕にそれを話すことで少しでも楽になるのなら、そして僕がその話を聞いて少しでも君を理解できるのなら、とても嬉しいんだ。そう、したいんだ。僕の言っていることがわかるかな」
「……うん」
 僕はまた泣きそうになりながら、子供みたいに頷いた。
「うん……わかる」
「よかった」
 アレッシオはまたにっこりと笑って、握っている僕の手をぐいっと引っ張った。
「泣いたら、お腹がすいただろう。ランチにしようか」
「……そうだね」
「さ、行こう」
 彼に手を引かれるまま歩き出した僕は、ふと後ろを振り返った。
 白とオレンジ色で華やかに飾られたドゥオーモが、変わらずそこにそびえ立っていた。
 冬の昼時の柔らかい日差しを浴びて、何百年も前からそうあったように、静かに、美しく。
 変わるものもあれば、変わらないものもある。
 心の中でそう呟いて、僕は首を戻し、アレッシオの隣を歩きながらまっすぐ前を見つめた。



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