その日、僕はアルノ川沿いの路地から一本奥に入ったところにある、小さなトラットリアに来ていた。久しぶりの、一人きりの昼食だった。
 それはとても小さなトラットリアで、作りこそいかにもイタリアといった感じで僕の目にはおしゃれに映ったけれど、日本で言うなら庶民的な食堂といった雰囲気だった。
 50代と思しき夫婦が二人で厨房をやりくりしていて、その息子くらいの年齢の青年が(あるいは本当に彼らの息子なのかもしれない)5台のテーブルしかないホールをまかされている。ランチに来る人々は皆常連ばかりのようで、しかもその夫婦と同年代の男性が多いようだった。テイクアウトの注文に来る人もいるようで、ヒーターの前に立って料理ができあがるのを待っていた老人が、できたてのあたたかいそれを嬉しそうに受け取って帰る姿が印象的だった。きっと急いで持ち帰って家族と食べるのだろう。
 ポインセチアの鉢植えを差し入れに持って来た人もいた。夫婦が嬉しそうに厨房から出てきてそのお客さんとハグを交わした後、オーダーそっちのけで置き場所についてああでもない、こうでもないと論議を交わしていた。
 オーダーが入っていない時は、若いカメリエーレは窓からぼけっと外の通りを眺め、そこを通る顔見知りの人たちや、若い女性と挨拶を交わしていた。時折携帯電話で楽しげに話してさえいた。実にやる気のない態度だったが、なんだか楽しそうなのでそれでも好感が持てた。食事客に対する態度が親切で明るいせいもあったかもしれない。
 僕はトリッパ・アッラ・フィオレンティーナという、牛の胃袋をトマト・ソースで煮込んだ料理を食べながら、そんなささやかな賑やかさに満ちた店内をぼんやりと眺めていた。
 すぐ隣の席に座った、初老の男性三人組の内の一人が、僕に向かって微笑みを投げかけてくる。僕もそれに笑みと曖昧な会釈を返した。そうしながらも、僕は自分の心がある種の空洞を抱えているのに気がついていた。
 それは、喪失感というものに近いのかもしれない。
 それ程悲壮的なものではなかったけれど、少なくともそこには少しばかりの情けなさと、大きな脱力感があった。体中にみなぎっていた力が抜けて、ホッとしたような、淋しいような、空しいような心持ちだ。

 結果から言うと、僕はアレッシオと共にボローニャには行かなかった。
 昨日、22日の昼に会った時に、僕は「明日一緒に行くことはできない」ときっぱりと断ったのだ。
 当然、彼は驚いたし、ひどく残念がってもいた。また、諦めきれない様子でもあった。
 僕自身、彼をがっかりさせるのは本意ではなかった。でも、自分の気持ちを正直に彼に話した。
 ――今はフィレンツェにいたいんだ、と。
 イタリアの地方都市が素晴らしいとは知識として知っているし、興味もある。クリスマスをアレッシオと彼の家族とで、賑やかに過ごすのも悪くないと思った。だけど今は――少なくとも今回の旅では、フィレンツェ以外の場所に移動する気にはなれなかったのだ。ここの主だった観光名所は見尽くしてしまったけれど、それでも僕はこの町を歩き、この町で眠り、この町の空気を吸っていたかった。時間が許す限り。
 今頃、彼はもうボローニャの駅に着いただろうか。
 ヨーロッパ最古の大学があるという、ポルティコ(柱廊)に縁取られた町。
 アレッシオが生まれ育った町。
 そこは、一体どんな場所なんだろう?
 見知らぬ町に思いを馳せながら、僕は少しぬるくなった料理をスプーンで口に運んだ。
 それは平和だけれど、何処か薄っぺらい午後2時だった。

 駅の裏にあるスーパーで買ってきた安ワインを飲みながら、僕は夕闇に沈むホテルの部屋で沁みのある天井を眺めていた。
 二重になっているガラス窓を一枚だけ閉めているので、外の騒音が微かに室内に忍び込んできていた。
 ドゥオーモの前で行われている大道芸の演じ手達が、こちらにまで足を伸ばして来ているらしい。賑やかなドラムの音と、人々の歓声が聞こえた。
 楽しげなざわめき。
 クリスマスを目前に控えて、誰もが心を浮き立たせている。
 望むのなら、僕だって今すぐそのざわめきの中に混じることができるのだ。
 赤ワインを入れたビニールコップをナイトテーブルに置き、座っていた腰を上げる。脱いでいたスニーカーを履き、ドアを開けて階段を下りたなら、すぐそこには大勢の人々の笑顔があるのだ。
 だけど僕はただ壁に凭れてベッドに座り込み、ぼんやりと天井を眺めているだけだ。
 12月23日の夜の過ごし方としては、悪くないじゃないか。
 イタリアの町のホテルの中で、人々の喧騒を聞きながら、ワインを飲む。安いけれど、コクがあっておいしいワインだ。それに、食料だってちゃんと買ってある。モツァレラチーズに、生ハム、ピクルス、オリーブの瓶詰め、パン、リンゴが3つ。トマトだってあるし、チョコレートもある。ビールならモレッティを4缶買った。この寒さだ、外に数時間出しておけばキンキンに冷えてくれることだろう。
 読むべき本もあるし、部屋の中はちゃんと暖房が効いていて、とてもあたたかい。お湯の出は良いとは言いがたいけれど、まあまあ清潔なバスルームで、望むときにいつでもシャワーが浴びられる。
 それで充分じゃないかと思う。
 何処にいたって、結局自分の性格が変わるわけでもない。
 僕は閉塞的な孤独に安らぎを感じながら、ワインボトルを傾けて、ぺらぺらのコップの中身を満たした。



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