そして、24日の朝が来た。
 クリスマス・イヴの朝だ。
 それでも、僕の目には、町は普段と大して変わらないように見えた。
 そう、クリスマス・イヴと言ったって、何か特別なことが起こるわけじゃない。ほんの少しお祭り気分になるだけで、それは飽くまでも日常の延長に過ぎない。
 僕は顔を洗った後、ホテルの小さな部屋の中で、パンとリンゴと水で簡単な朝食を摂りながら、窓を開け放ってぼんやりと外を眺めていた。
 いつもの営業時間になっても、店を空ける気配のないバール。いつもと変わらず営業を始めるタバッキ。町を歩くのは、観光客と思しき若者達だけだ。
 TVをつけると、ミサの準備が整えられたヴァチカンのサン・ピエトロ広場が映されていたり、各家庭のクリスマスの様子が流されていたり、神父が神の教えを説くのを放送しているチャンネルもあった。
 いよいよ、雰囲気的に日本の正月に似てきたな、という感じがした。
 リンゴでベタついた手を備え付けの洗面台で洗っていると、ふいにベッドの脇にある電話が鳴り出した。
 僕は驚いて、けたたましいベルの音を聞きながら、数秒間固まった。
 鳴るはずのない電話だった。
 僕の知人の誰もこのホテルの電話番号なんて知らないのだから。
 僕はおざなりに濡れた手を拭くと、おそるおそる受話器を取った。
 イタリア風に「プロント」と言っても良かったけれど、その後イタリア語で会話を続けられるとは思えなかったので、英語で行くことにした。
「イエス?」
『ミスタ・アイザワ?』
 聞き覚えのある声だった。
「イエス」
『You have a guest. Please come to the front desk』
 どうやら、相手はホテルの従業員である、ロレンツォのようだった。僕に客が来ているという。
「Guest? Who is it?」
『……,………,……Alessio』
 受話器の向こうで、イタリア語のやりとりが交わされた後、告げられたのはその名前だった。
「Alessio? He's there? Are you sure?」
『Si, Si』
「OK. I'm comming」
 僕は今行きます、とだけ行って、慌ててスニーカーに足をつっこんだ。
 アレッシオが、フロントに居ると言う……信じられなかった。まさか、という思いが、僕の心臓を揺さぶっていた。
 だけど、駆けつけたそこに立っていたのは、紛れもなく彼だった。
 濃いグレーのコートにブラックのジーンズを履いた彼は、僕を見ると眩しそうな顔をした。
「アレッシオ……どうして」
「君に会いたかった。理由が他にあるかい?」
 僕は首を横に振った。
「だけど……せっかくボローニャに帰ったのに」
「君はここに居たいと言った。僕は君と一緒に居られれば、場所なんて何処だっていい」
「でも、御家族は? せっかくのクリスマスなのに」
 アレッシオは笑いながら肩をすくめた。
「家族とは、これまで何度もナターレを一緒に過ごしてきた。だけど、君とはこれが初めてだろう、カズマ。だから、今日は君と一緒に居たいんだ……僕の家に来ないか。ささやかだけど、準備がしてある。母の焼いたパネトーネもあるよ。あとは、ワインと君が必要なだけだ」
 嬉しかった。
 だけど、まだ戸惑いとためらいを隠せない僕に、フロントデスクに居たロレンツォが声をかけてきた。
「行ってきなさい、ミスタ・アイザワ」
「え……」
「家族も大事だが、恋人も大事だ。親不孝も、今夜は神が許してくださるよ」
 僕は目を丸くして、ロレンツォを見つめた。
 イタリア人というのは、どうして同性愛にこうも寛容なのだろうか?
 ……いや、違うな。同性愛というよりも、愛そのものに寛容なんだ。
 僕は思わず笑い出しそうになりながらも、頷いた。
「わかった、そうするよ。ありがとう、ロレンツォ」
「良いクリスマスを。ボン・ナターレ」
「ボン・ナターレ」
 僕はロレンツォに祝福の挨拶を返すと、アレッシオに微笑みかけた。
「行こう、アレッシオ。君の家に行って、君と一緒にクリスマスを過ごすよ。……僕も、そうしたいんだ」
「ああ、カズマ」
 アレッシオは感極まった、というように僕をぎゅっと抱きしめた。
 さすがに、これには慌ててしまった。
「君がOKしてくれてよかった。もし断られたら、アルノ川に身を投げてしまうところだったよ」
「そんな、大袈裟な……と、とにかく、今上着を持ってくるから、ちょっと待ってて」
「わかった。外の車で待っているよ」
 僕は来た時と同じように慌てて部屋に戻ると、着古したブルゾンをはおり、貴重品を内ポケットに突っ込んで、少し考えてから買ってあった食糧を黄色いスーパーの袋に入れて持つと、ホテルを出てアレッシオの車の所へ行った。
 アレッシオはスーパーの袋をひょいっと覗き込むと、悲しそうに首を振った。
「こんなものを食べていたのかい、カズマ?」
「うん、まあ……何だかもったいなくって、持ってきてしまったんだけど」
 何となく、ホテルにはすぐ帰らないような気がしていたからだ。
「これでは、もっと痩せてしまうよ。OK、僕がきみのほっぺたをこのリンゴみたいに膨らませてあげるからね」
「そんなに太るのは困るな……」
 笑い声に包まれながら、車は動き出した。



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