教会の鐘の音が聞こえる。
 イタリアの、いつもの朝だ。
 だけどその音はいつものホテルとは違った角度から聞こえてきた。
 大きな窓から差し込む、ほの明るい陽の光。
 冷たく澄んだ空気。
 町はひっそりとしている。眠っているのか、起きているけれど息を潜めているのか。
 それはとても静かな朝だった。

 ゆっくりと寝返りを打つと、昨夜アレッシオを受け入れたところがヒリヒリと疼いた。
 それでも、パリッとしたシーツの肌触りが心地良い。
 朝日に照らされた、眠るアレッシオの横顔はとても美しかった。
 まるで彫刻のようだった。
 起きているのに、まだ夢を見ているような気分だ。
 これが現実のこととは思えない。でも、手を伸ばせば彼の頬に触れることができて、そのぬくもりが指先から伝わってくる。静かな寝息が空気を震わすのを感じることができる。
 そっとそのまま指を滑らすと、顎のところで微かに引っかかりを感じた。髭が伸びてきたのだろう。
 しばらくそのザラリとした感触を楽しんでいると、眠っているはずのアレッシオがくっくっと笑い出した。
「……くすぐったいよ、カズマ」
 微かにかすれた声が、甘さを帯びていた。
「起きていたの」
「……眠っていたのか、起きていたのか。だけど、君が起きたのは感じていたよ」
「起こしてしまった?」
「もっと早く起きたかったな。そうしたら、君の寝顔を眺めていられた」
 ゆっくりと開いた瞳が、悪戯っぽく僕を見上げた。
 僕が頬を赤くして押し黙るのを、微笑みながら見つめている。その溢れんばかりの愛情を込めた眼差しに、僕は何も言えなくなる。
「おはようのキスをくれないか、カズマ」
 囁くように請われて、僕は彼の上に被さった。
 弾力のある唇の上に、小さくキスを落とす。すぐに離れようとした僕を、たちまちアレッシオの腕が捉えた。そのままたくましい胸の中に包まれて、何度も何度もキスを返される。
「アレ……ッシオ……」
「君は本当にかわいい。僕の小鳥」
「僕は……子供じゃない」
「わかっているよ、カズマ。君はきちんと意志を持った、若い男性だ。君を女性や子供のように扱うつもりはない……だけど、わかってくれ。君が愛しくて仕方ないんだ」
 まるで砂糖で煮詰めたような彼の言葉。以前の僕なら冷めた面持ちで聞き流すか、皮肉の一つも返していたことだろう。だけど、今できることと言ったら、ただ嬉しさと恥ずかしさに頬を染めて、目を伏せることだけだった。
 僕も何か言葉を返した方がいいのはわかっていたけれど、何と言っていいのか見当もつかない。
 気持ちを言葉で飾り立てることが、こんなに難しいなんて。
「ミ……ピアーチェ」
 アレッシオが目を見張る気配がした。
 甘い言葉が言えないのなら、率直でいい。ただ、気持ちを伝えたかった。
「君を、愛してる。ティアーモ、アレッシオ」
 アレッシオは一瞬言葉をなくしたようだった。息を飲んだ後、慌てたように僕をしっかりと抱きしめてくる。
「ああ……カズマ。ティアーモ、アモーレ・ミオ……」
 アレッシオの胸の中は、とてもいい匂いがする。彼の体臭と、微かな香水の香りが混じって、僕をとても落ち着かせた。
「君を、放したくない」
「僕は何処へも行かないよ」
「ああ……だけど、君は日本へ帰ってしまう! 耐えられないよ」
「すぐに会えるよ。アレッシオだって日本へ来るんじゃないか」
「シ・シ……でも、一瞬でも君と離れていたくないんだ」
「アレッシオ」
 顔を上げると、きれいなラインを描く彼の眉が悲しげにひそめられていた。
「お願いだから、悲しまないで欲しい。アレッシオ。悲しいことを考えて欲しくないんだ」
「そう言う君の方こそ、悲しい顔をしているよ」
 アレッシオはひょいっと眉を上げた後、僕の頬を両手で包み込んだ。
「嬉しいことがあれば、悲しいこともある。クェッロ・エ・ラ・ヴィータ……それが人生だよ。喜びと悲しみは常に裏表にある」
 僕は頬の上の手に自分のそれを重ねた。
「だけど二人なら、悲しみは半分に、喜びは倍になる」
 いかにもイタリア人という感じの陽気で楽天的な言葉だった。だけどそれは僕の心の奥深い所に、真っ直ぐに下りて来た。
「いいこと言うね」
「恋は時に人を無口に、時に饒舌にさせるのさ」
「……ことわざはもういいよ、アレッシオ」
 僕が笑いを堪えきれずにそう言うと、彼もにっこり笑った。
 悪びれないその笑顔が、なんだかとても眩しかった。



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