今年残り僅かの日々は、きらきら音を立てるように輝きながら、あっと言う間に駆け抜けていった。
 手を伸ばせばアレッシオの乾いた大きな手の平に届くし、目を覚ませばそこに彼の微笑みがある。アレッシオのぬくもりとほのかな香水の香りに包まれて過ごしていると、自分が雛になったような気がした。
 母鳥の羽に守られて、この世に怖いことなど何もないと思っている、幸せな小鳥。
 いつかその優しい巣から飛び立たねばならないと、本能で知っている――。

 静かで神聖な空気を帯びたナターレとはまた異なって、カポダンノ(年明けのお祭り)はそれは賑やかなものだった。賑やかというのは甘いかもしれない。僕の感覚では「すごい馬鹿騒ぎ……」としか言えなかった。
 あちこちで爆竹の爆ぜる音や車のクラクションが響き渡る。深夜にも関わらず、ほぼ全ての窓からは煌々とした灯りが漏れていた。
 僕達は年明けと共に、よく冷やしたスプマンテを開けた。金色に輝く液体の中を、小さな泡がいくつもいくつも立ち上っては弾ける。甘い香りと刺激的な味を楽しみながら、僕とアレッシオは飴を温めて伸ばすように、全ての動作をゆっくりと行った。まるでそうすれば、時間の進むスピードそのものが遅くなるとでもいうかのように。
 年が明けてから一週間後、僕は日本へ帰る。
 この古く、小さく、そして美しい花の町を出て行くのだ。
 帰りたくない、と言えば嘘になる。
 慣れ親しんだ日本料理の味や、日本のほのぼのとしたお正月や、財布を掏られることを気にせずに歩ける環境が懐かしくてたまらない。日本に戻って、誠司のお母さんと約束したデートをしたいとも思う。
 やがて日本に来るアレッシオと再会して、日本の美しいところをあちこち案内するのを想像するととても楽しくなる。
 だけど、それでも。
 毎日、明日が来なければいいのにと思った。
 この、ぬるま湯につかっているような優しい時間を惜しむ自分がいた。
 何故ならこれは夢だからだ。
 いつか覚める筈の夢。
 真昼に見る夢のように、それは妙にリアルで、何処かシュールで、それでも幸福の淡い輝きに満ちている。
 永遠に覚めることなどないような、そんな錯覚さえ覚える。
 だけどいつか、現実に帰る時がやって来るのだ。

「ついに、明日だね」
 ベッドの上、朝陽の中でぼんやりとしている僕に、いつものようにカフェ・アメリカーノを運んできてくれながらアレッシオが言った。
「明日の朝、君は日本に帰ってしまう」
 香ばしい匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、僕はカップを受け取った。黒い水面に自分の顔が映る。
 明日の8時の飛行機を予約してあるので、まだ暗いうちに僕はフィレンツェを発たなければならない。
「帰したくない……と言ったら、君を困らせるね、カズマ」
 僕のおでこにキスを落として、アレッシオが隣にゆっくりと座った。
「すぐに会えるよ、日本で」
「……そうだね。ほんの少しのお別れなだけだ」
 アレッシオは苦笑いをする。彼のこんな表情は珍しかった。
「どうしてかな。不安で仕方ない……もう二度と君に会えないような気がして」
「アレッシオ」
 不吉な言葉に、僕はギクリとして怖い声を出す。
「そんなことを言ったらダメだ。どうして会えないなんてことがある? 僕達は、二人とも生きているのに……生きているんだから、絶対にまた会えるよ」
「……そうだね」
 必死で言い募る僕に、彼が微笑みかける。
「おかしなことを言った。ごめん」
「大丈夫。だけど、お願いだから、もう会えないなんて言わないで欲しい。僕は、アレッシオと日本で会えるのをすごく楽しみにしているんだから」
「……ああ、カズマ」
 アレッシオは僕をぎゅっと抱きしめて、長い溜息を吐いた。
「嬉しいよ、すごく。……君は僕にとって本当に特別な存在だよ、カズマ。君は僕をこんなにも不安にさせるし、君の一言が僕をこんなにも幸せにする。何処にもこんな人はいないよ」
 僕だって、アレッシオ。
 この広い胸に包まれて、この優しい腕に囲まれて、こんなにも安らげる人はいない。
 愛し、愛されるということが、こんなにも幸せなことだったなんて、今まで知らなかった。
 胸の中を駆け巡る思いを言葉にできずに、僕は唇を噛む。
 ただできることは、必死に彼のあたたかい背中にしがみつくことだけ。
 だけど、こうして少しの隙間もなく抱き合っていると、言葉なんて何も必要なかった。
 ふたりの温もりがひとつに溶け合って、それだけが世界の全てになるから。
「……旅行の終わりの記念に」
 やがて、アレッシオが少し掠れた声を出す。
「何処か、行きたいところはあるかい、カズマ?」
「行きたいところ?」
「フィレンツェを、君と僕とが過ごした町を、けして忘れないように……最後に行きたいところは?」
 行きたいところ。
 思い出の場所。
 それは、ただ一つしかない。
 僕は一瞬の躊躇の後、大きな乾いたアレッシオの手を強く握り締めて、口を開いた。

「……ドゥオーモへ」



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