それは1月とは思えないくらい、風のない暖かい午後だった。
 そのせいか、先日一人で昇ったときにはそれ程つらいと思わなかったのだけれど、今回は額に噴出す汗を拭いながら昇ることになった。
 ブルゾンを脱いでもまだ暑く、微かに息も乱れる。
 いつもと変わらぬ、動かぬ建造物の筈なのに、こんなにも違う面を見せられるとは思っていなかった。
 前回みたいに、じっくりと窓や壁の歴史の重みを感じる余裕もなく、物思いに沈むこともないままクーポラまで必死に上り詰めた。
 屋外に出たという嬉しさと、冷たい風が汗ばんだ首筋を撫ぜる気持ちよさと、背中を冷たくなった汗がつぅっと流れ落ちる何とも言えない爽快感。
「あー、気持ちいい!」
 思わず日本語が飛び出してくるくらい、爽やかな心地だった。
「いや、いい運動をしたね」
 アレッシオも上着を脱いで、ニコニコしている。
 少し疲れたけれど、それが子供の頃のハイキングを思い出させて、何処かくすぐったいような感じ。
 澄み切った空は晴れ渡っていて、冬だというのに青が鮮やかだった。
 二人で肩を並べて見渡すフィレンツェの町は、とても穏やかで綺麗に見えた。
 もう見納めだと思うと、なおさらその美しさが胸に沁みる。
「また、来れるよ」
 僕の感傷を察したのだろうか、手すりに寄りかかった姿勢のままでアレッシオがそう言う。
「君が望むのなら、カズマ。……いつだってこの町はここにある。これからもずっと変わらない姿で」
 僕もまた、手すりにもたれて景色を眺めながら、何度も頷いた。
「うん。そうだな……うん……そうだよね」
「いつか……今度は一緒に、ここへ帰ってこよう」
 冬の風に冷やされ始めた僕の手を、上からアレッシオの大きな手が包み込んだ。
 長い指にぎゅっと力が込められる。
「そう、できるといいな」
「できるさ」
「……うん、そうしたい」
 彼の顔を見上げた。
 降り注ぐ陽射しの下で、少し眩しそうに目を細めているその表情が、とてもいいなと思った。
 彼の整った甘い顔立ちがグッと引き締まって、ちょっと渋い魅力が出た感じ。
 細められた瞼の間から僕を見つめるその瞳が、好きだと思った。
 とても、とても好きだと。
「ミ・ピアーチ……アレッシオ」
 小さく囁いた僕の言葉を、彼の耳はしっかり拾ったらしい。
 ニコッと笑って、僕の額にキスをした。肌に触れたまま、その唇が動く。
「……ティアーモ・カズマ。ソーノ・フェリーチェ・ディ・アヴェルティ・インコントラート……愛してる、カズマ。君と出会えてよかった」
 ――アレッシオ。どうして彼の言葉はこんなにも僕の中に深く響くんだろう。
 今まで、愛しいという気持ちさえあれば、言葉なんて必要ないと思っていた。
 誠司から、将来の約束だとか、想いをぶつける言葉だとか、そういうものをもらえなくても平気だと思っていた。誠司はそれを与えたくても与えられないのだから、仕方ないと……今この一瞬が幸せなら、それで生きていけると思っていた。だけどそれは、ただ諦めていただけだったんだ。そうじゃなければ、どうして今こんなにも嬉しい? アレッシオが僕にくれる言葉のひとつひとつが、どうしてこんなにも僕を癒し、穏やかで満たされた気持ちにしてくれるのか……本当は、泣きたいくらいそれを求めていたからじゃないのか。溢れる程の想いが込められた、大切な言葉を。
「ソーノ・フェリーチェ・ディ……?」
「アヴェルティ・インコントラート」
「アベルティ・インコントラート……僕も、君と会えてほんとによかった。君がいなければ、僕にとってこのドゥオーモは悲しい場所でしかなかった」
「今は?」
「……今は……」
「ストップ。言わなくていいよ」
「えっ?」
「君の顔を見ればわかる、カズマ。とても楽しそうな、僕の大好きな笑顔だ」
 そう言ってにっこり笑う、アレッシオこそが楽しそうだ。
 彼は時々いかにもイタリア男という感じで、すごく楽天的になるけれど、もしかしたらわざとなのかもしれないと思う時がある。だって彼の笑顔を見ているだけで、こんなにも肩の力が抜けて楽になれるから。強ばっていた表情が緩んで、自然と笑顔になれる。
 温かい気持ちで、もう一度フィレンツェの町を見渡した。
 すぐ近くにそびえ立つジョットの鐘楼の、ウェディング・ケーキのような華やかさ。
 右手の視界ギリギリには、サン・ロレンツォ教会と、僕が止まっていたホテルのあるファエンツァ通りが見える。小ぢんまりとしてかわいいサンタ・マリア・ノヴェッラ教会や、そこだけ灰色で妙に浮いているスタチオーネ(駅)。
 正面、ジョットの鐘楼の奥にはレプッブリカ広場。今日はあのメリーゴーラウンドは動いているんだろうか。ここからだとよくわからなかった。そこから少し左に、歴史の重みを感じさせるパラッツォ・ヴェッキオと、それに重なるようにウッフィツィ美術館が見える。そしてその向こうをゆったりの流れるアルノ川。そこに架るいくつもの橋の中でも、ひときわ目立つポンテ・ヴェッキオ……今日もたくさんのきらきらした宝石が売られ、そして買われ、また憧れの眼差しを注がれているんだろう。
 そして、クリーム色の切り石積みのパラッツォ・ピッティ。隣接して広がるボーボリ庭園の鮮やかな緑。高台になっている、ミケランジェロ広場も見える。
 オレンジ色に統一された街並みと、その隙間を走る色とりどりの車の群れ。
 町を包み込むような、なだらかな山々。
 その美しく平和な光景を、僕達は飽きることなく眺めていた。



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