ドアを開けると、湿った冷たい空気が鼻を突き抜けた。
 まだ眠りについている、朝5時の冬のフィレンツェ。暗くて、とても寒い。いつだって、夜明け前が一番寒いんだ。
 僕は大きなバックパックを背負って階段を下りると、街灯の光を反射してオレンジに浮かび上がる、石畳の道を一人で歩き始めた。
 ――アレッシオは、まだベッドの中で眠っている。
 彼の整った寝顔を見つめていると、黙って出て行く罪悪感と、自分の意気地のなさに落ち込んだ。だけど、これは自分で決めたことなんだ。
 日本に帰るということを具体的に意識し始めた頃から、一人でここを発とうと決めていた。
 理由はない。
 細かく説明しようとすれば、感傷的で独りよがりな言葉になってしまう。
 だから、ただ黙って出発しようと思った。
 一人で、日本へ帰ろうと。

 まだ暗く冷たい空気に吐き出す白い息を見つめながら、デコボコした足元につまづかないよう歩いた。
 SITA社のバスは6時に出る。イタリアの常としてバスが遅れることを考えても(たとえ30分以上遅れたとしても)、7時そこそこでアメリゴ・ヴェスプッチ空港に着く筈だ。8時25分発のフィレンツェ-ミラノ便には充分間に合う。
 ここから駅までは、重い荷物を担いで歩いたとしても一時間はかからない。
 急ぐ必要などないのに、僕はただひたすら足を動かしていた。
 夜明け前の寒さに冷え切った体は、すぐに温かくなってきた。肩と背中に圧し掛かるバックパックの重みが、僕にこの旅の始めを思い出させた。
 ――誠司。
 彼を思って一人でここへ来たのだから、帰る時もそうあるべきだと。
 そんな考え方はおかしいのだろうか。
 僕はこの短い間で随分変わってしまったのに、始めと終わりを同じにして帳尻を合わせたような気分になっているのかもしれない。だけど誠司のことを考えようとしているのに、どうしても浮かんでくるのはアレッシオの――アレッシオの僕を呼ぶ声や、僕をからかって笑う声や、愛しさを込めて強く僕を包み込む腕や、程よく筋肉のついた胸の奥の鼓動や、瞬きもせずじっと僕を見つめる優しげな瞳や、よく動く形のいい唇――駄目だ。こんなこと考えてたら、余計につらくなる。だけど、彼のことを想ってしまう。ついさっきまで一緒にいたのに。また日本で会えるのに。
 でも今ここにはいない。
 自分で彼のぬくもりから離れてきた。
 遅かれ早かれ彼とは一度別れなければいけないのだから、これは仕方のないことなんだ……でも、本当に?
 ぎりぎりまで一緒にいることだって出来た筈だ。彼は喜んで空港までついてきてくれただろう。今日は土曜日で、アレッシオの会社は休みなのだし……。だけど、そうしたらもっと辛くなるような気がする。たとえどんな形にせよ、別れの悲しみは最小限に抑えたかった。少なくとも今は。
 今はまだ、僕は別れというものに異常なまでの怯えを抱いている。
 自覚があるだけマシだろう。
 ――誠司の命が磨り減っていく中、逃れようのない別れが訪れるのをただ待っていたあの日々。今でも夢に見る。きっとこの先、完全に忘れることなんて出来ないだろう恐怖。生き続けるということの幸運と、死によって決定的に分かたれる世界と、人間の無力さ、そして命が消える直前の一瞬一瞬の尊さ。
 今考えれば、けして悪いことばかりではなかった。僕は彼の死を乗り越えられた筈だった。病室の無機質さと、消毒液と微かな饐えたにおいを体にまとわりつかせたまま毎日を過ごして来たけれど、飛行機に乗って広大な大陸を越え、この古く小さな町に留まって、もういいのだと思うことができた筈だった。
 でも、もしアレッシオと空港で別れることになっていたとしたら――僕はまた悲しみに気付かないふりをして、涙を流せないまま、ただ自分の中から何かが失われて行くのを漠然と感じることだろう。
 どんなに臆病な奴だと、卑怯で男らしくないと罵られようと、そんな想いだけは二度としたくなかった。

 そして僕は歩き続ける。
 まだ明るくなる気配のない暗い道を。まるで岩のように重く肩にくいこむバックパックを背負って。煙草でも吸っているかのように、真っ白な息をたくさん吐きながら。冷たく湿った空気を吸って、顔を火照らせて。
 ぐるぐると思考はループし、僕の視線は道を確認する意外は足元だけに向けられていた。
 だから、全く気がつかなかった。
 ようやくたどりついた、駅近くのSITA社のバス乗り場に停まったメタリック・グレーの車に。
 


22






TOP