冷たく白い朝もやに包まれたアウディの運転席から、家で眠っている筈のアレッシオが出てきたとき、僕は自分が寝ぼけているんだと思った。さっきから彼のことばかり考えているものだから、似たような車から降りてきた人を彼と見間違えたのだと。だけどその瞬間僕の心臓は本当に誰かの手に鷲掴みされたかのように痛み(けしてそれは嫌な痛みではなかった。心臓に良くないという気はするけれど)、冷え切っていた頬が一気に熱くなり、そして下ばかり見ていた両目がこれ以上ないくらい見開かれた。
「――カズマ」
 僕の名を呼ぶその声に、僕ははっと息を飲み……そして、走り出した。理性とは切り離されたそんな衝動が自分にあるとは、この時まで知らなかったくらいだ。
 足をもつれさせる重たいバックパックをその場に投げ捨て、僕は何も考えずに彼の――アレッシオのその広い胸に飛び込んだ。一瞬遅れて、彼の両腕が僕を包み込む。始めはこわごわと、そして次に息ができないくらい強く、きつく。
 僕を放すまいとする彼の胸や腕の筋肉の動きと、朝の冷気に冷えた衣服の中から伝わる暖かさと、そして彼の匂いを感じて、僕はものすごく泣きたくなった。
 自分が今嬉しいのか、悲しいのか、よくわからなかった。
 ただ彼と放れたくなかった。放して欲しくなかった。このまま一つになってしまえるくらい、力の限り抱きしめあいたかった。だってこうしていれば、何も考えなくて済む。良いことも悪いことも全部しめ出して、ただ互いが相手の全てになっていられる。僕にとって、ただ彼だけが全てに。
「――ごめん」
 Sorryと、ただそれしか言えなかった。発音の仕方も忘れたような、片言の英語で。
「謝らないで」
 Don't be sorryと、アレッシオは応えた。微かにイタリアなまりのある英語で。
「どうして……どうして貴方は全てを許してしまうんだ、アレッシオ。もっと責めていい。怒っていいのに。卑怯な真似をした僕のことを」
 鼻声でもどかしくそう言うと、震動で彼が笑った気配がした。
「……卑怯だなんて。君がそうなら僕はどうなる? 審判員に聞こえないのをいいことに、言葉の限り相手を中傷するサッカープレイヤーよりもっと卑怯な男だ」
「アレッシオが? まさか」
「――君が一人で出て行ったのには気がついていたんだ」
「え……」
 僕はびっくりして、彼を抱きしめる腕から力を抜いた。その分、アレッシオの腕に力がこもった。
「君が次の日にいなくなってしまうというのに、眠ることなんてできると思うかい? 僕は、君が迷いながらもドアを開けて出て行くのを、寝たふりをしながらずっと見ていた。そして君がドアを閉めて家から遠ざかってから、大急ぎで着替えて車に乗って、裏道を使ってここまで来たというわけだ」
 アレッシオは苦笑をもらした。と言っても、しっかりと抱きしめられている為、その表情を窺うことはできなかったけれど。
「何でそんな回りくどいことをするんだって思うだろうね。……寝たふりをしていた時、君が僕の方を見て溜息を吐く度、跳ね起きて君を抱きしめたかった。カズマ、君をこの腕の中にこうして包んで、そしてキスしたかった。だけどその時にそうしたら、拒絶されるかもしれないと思ったんだよ。このフィレンツェでの出来事自体、旅先での一時の気の迷いと片付けられてしまうのではないかと。だけど君は一人で寒い道を歩いて、きっと色々考えるはずだ。冷静に、日本に帰ってからのことや、そしてイタリアでの楽しい思い出について思いを馳せるはずだ。それからなら、きっと――きっと僕に付け入る隙間があると……」
「アレッシオ」
 なんだか泣きそうだった。彼がそんな風に必死になってくれたというのが、嬉しかった。
「怖いんだ、君を失うのが。たとえ君にとってその方がいいのだとしても、それでも君を失いたくない。カズマ、君は僕にとって本当に特別な人なんだ。何度でも言うよ。愛してる。愛してる、カズマ。ティアーモ……アモーレ・ミオ」
 その瞬間、僕は何かに許されたような気がした。
 ずっと僕を覆っていた悲しみから抜け出せたような、大袈裟な言い方だけど、新しい人生が始まるような、そんな気がした。
 彼となら。

 僕は彼の暗い色の瞳をじっと見つめて、一言一言、ゆっくりと言った。
「ティアーモ、アレッシオ。貴方を、誰よりも……愛している」



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