第二章 王妃と後宮の女王


 ユクセルに俺が誘拐された事件から、約二ヶ月経った。
 あの事件をきっかけに、俺はジャハーンと共にこの世界で生きていこうと決意した。
 広大な砂漠と、豊かな湿地帯が混在するこの土地で。天地に神々が存在するこの太陽の王国で。
 もちろん決意したからには、この世界の規則だとか、風習だとか、色んなことに出来る限り従って行こうと思っている。
 郷に入りては郷に従えという言葉もあるし。
 でももちろん、出来ないことだってあるわけだ。

「そ、それ以上近付いたらぶっ殺すからな!」
 俺は獣神の像を両手で抱えて振り回しながら、精一杯その男に睨みを効かせた。そいつだって仕事でやってるんだとわかってはいるが、それを許したら俺の男の沽券に関わるんである。
「神子、お願いでございまする。これなくしては儀式には臨めぬのでございますよ」
「そんなの知るかっ!」
 ついにジャハーンとの結婚式を控えた今日、夜明け前に俺は叩き起こされ、ケルエフというその神官が待つ神殿の一郭へと連れて来られた。この国の神官はみんな坊さんみたいに頭を丸めていて、ケルエフも例外ではなかった。つるつる頭の、妙に女性的な顔立ちのその神官は、手元のすり鉢の中で何かをこねくり回していた。一体何が始まるんだと欠伸をかみ殺していた俺は、いきなり服を引ん剥かれて剃刀を構えられたので、仰天してそれこそ必死に抵抗したのだった。
「そう仰せられましても、剃毛は婚儀には欠かせぬこと。何も髪を剃り落とすとは申しませぬ、不浄である体毛を除去するだけでございまする。お聞きわけくださらぬか」
 そんなこと言ったって、嫌なもんは嫌なんだよっ!
 第一、スネ毛とかならともかく、下の毛まで剃ろうなんて、そんな変態みたいなことできるかっつーの。
 こうして睨み合いをしていても埒があかないと思ったのか、他の神官達がジャハーンを連れて来た。
「何をそんなに騒いでいるのだ、潤」
「あっ、ジャハーン、あんたからも言ってくれよ。て、剃毛だなんて、馬鹿な真似やめろって」
「そう言ってもな、しきたりはしきたりだ。まあ、お前が私以外の男に、たとえ去勢した神官とて、体を見せるのが嫌だという気持ちはわかる。良い、しきたりからは少し外れるが、私がしてやろう」
「はあっ?」
「王は神の化身だそうだからな、まあ問題はなかろう。ケルエフ、ご苦労だった。道具を置いてお前は儀式の準備にかかるが良い」
「は……仰せのままに」
 ケルエフは顔にこそ出さないものの、いかにも助かったと言わんばかりに、さっさと部屋を出て行った。他の神官達に色々言いつけているのが聞こえる。多分儀式を控えているのですごく忙しいんだろう。
「さて、潤、始めるか」
「い、嫌だっ! 大体、何で毛なんか剃らなきゃいけないんだよッ。不浄だか何だか知らないけど、別にいいだろこのままで。誰かに見せるわけじゃなし」
「そういう問題ではないのだ。本来ならば常に無毛の状態でなければならぬものを、神子であるお前を慮って儀式の時のみで良いと申しているのではないか」
「だけど、ジャハーンだって剃ってないじゃんかよ」
「だが、今日は私も剃毛したぞ」
 その言葉に、俺は仰け反った。
「はあっ? な、なんだって?」
「私も剃毛したと言っているのだ。さあ、時間が迫っている。ジタバタせずに観念しないか」
 まるで悪代官のようなセリフを吐いて、ジャハーンが俺の体を押さえつけた。
「嫌だ嫌だっ、放せこの野郎!」
「おい、暴れては傷がつくぞ。切り落とされたくはないだろう」
 その物騒な言葉に、俺はピタッと抵抗をやめた。
 き、切り落とすって……怖〜っ。冗談になってないんですけど。
 ジャハーンに自分も剃ったと言われて、俺だけは嫌だと駄々を捏ねるのも大人気ないというかずるいような気がして、俺は泣く泣く体の力を抜いた。こうなりゃ、仕方ない。毒を喰らわば皿までというやつだ。とことんあんたにつきあってやろうじゃないか。
 ジャハーンは石のすり鉢の中の灰色のクリームを、まず俺の腕と足に塗りたくった。
「ほとんど生えていないから、ここはざっとでいいだろう」
 うるせー、ほっとけ! どうせ俺はもやしっ子だよ。男らしいギャランドゥとは無縁だよっ。
 続いて腋も軽く刃を当てられて、ついに問題の股間にクリームを塗りたくられた。
 俺は万が一にも反応してしまわないように、素知らぬ顔をして、頭の中で徳川幕府歴代将軍の名前を初代から挙げていった。だけど心臓はバクバクだ。だってそうだろ。そんなとこにそんなもん塗られて、しかもス、ス、好きな、相手に、それも男に、毛を剃られている……だなんて、あまりにもアブノーマルなその状況に、恥ずかしさと居たたまれなさと恐怖が入り混じって、そりゃ妙な気分にもなるよ。
 青銅の剃刀が肌の上を滑るひやっとした感覚と、毛が剃り落とされていくゾリゾリとした感覚に、俺は段々泣きたくなってきた。
「よし、終わったぞ」
 ジャハーンの声に、反らしていた視線を自分のそこに落とした。見覚えのあるそれが別人のモノのような気がして、ますます泣きたくなる。
「そんな顔をするな。生粋の我が民族なら儀式の際に必ずやることだ」
「ええっ?」
「神官達や貧しき者達は日常的に行い、常に無毛を保つのだぞ」
 ゲッ、なんだそりゃ。ヒゲ剃りと同じ感覚ってこと?
「毛は不浄であり、神像や聖域を不浄なもので侵すことは許されん。例外はあるが、正式な儀式や行事の折には王族をはじめ、貴族全員が剃毛する義務がある。また毛は蚤や虱の沸く原因にもなり、医者に容易に通えぬ者達は清潔を保つ為に無毛を心がけるのだ。強要ではないが、私から国へ病気の予防法として指示を出している」
 ……まあ、そこまで理論的に説明してもらえるなら、俺も我慢するけどさ。
 まあこんなに暑い国だもんな。そりゃあ病気も多いだろう。
 俺が渋々納得したのがわかったのか、ジャハーンは「儀式の折にまた会おう」と言ってさっさと部屋から出て行った。それと入れ替わるように、アマシスが部屋に入って来た。
「潤、聞いたよ。剃毛したんだって?」
 なんでそんなに嬉しそうなんだよこいつは。
「ねえ、ちょっと見せてよ」
「はあ?」
「いいじゃない、少しくらい。僕のも見せてあげるから」
「ば、馬鹿言ってんじゃないッ! 絶対駄目ッ」
「チェッ、ケチ。……ま、いいや。今潤の無毛のかわいいソレなんか見たら、興奮しちゃって儀式どころじゃなくなっちゃうもんね」
 キャハッと笑うアマシスを前に、俺はどっと身体中の力が抜けてしまった。まったくこいつは、朝っぱらから何を考えてんだよ。ん? そういえばさっきジャハーンがさっさと出て行ってしまったのって……もしかしてこいつと同じ理由? ……もしかしなくても、そうだろうな、きっと。それならそうと、一言言ってくれればいいのに。いや別に、言われてもどうこうできるわけじゃないけどさ。
「なに一人で顔赤くしてんの?」
「な、なんでもない」
「いやらしいこと考えてたんだろ」
「うッ……ち、違う」
「嘘ばっかり。潤はすぐ顔に出るんだから。ほら、何を考えていたのか、僕に言ってごらん?」
 アマシスに軽く顎を掴まれて、上を向かせられる。
「だから、何でもないって」
「強情だね。じゃあ僕があてて見せようか。王のたくましい男根が、毎晩自分の中をかき回し、乱れさせとろけさせるあの猛々しい一物が、今子供のように無毛な状態になっているなんて! 今夜はそのつるつるなたくましいものに貫かれるなんて! ……ってところでしょ」
「全然、違うッ!」
 誰かこいつの脳を一回洗浄してやってくれ! 絶対に腐ってるぞ!
 そんな風にギャアギャア言い交わしながら、アマシスとピピに手伝ってもらい、仕度を整えていった。
 白いシルクの巻きスカートと、金と青金石のベルト。装飾されたパピルスのサンダル。裸の上半身にはヘンナで黒、黄、橙、朱のタトゥーみたいなものが描かれた。ビックリしたけど、二十日前後で消えるらしい。ビーズ細工の腕輪やネックレスを何重にもつける。
 赤土のチークと、眼病予防の効果があるという孔雀石のアイシャドウを塗られ、それからコール墨で眉、まつ毛、アイラインを化粧された。俺はもちろん化粧のことなんか全然わからないから、これらは全部アマシスの受け売りだけど。
 そうして準備が整った頃には、すっかり俺は煌びやかな王国の人間になっていた。
「よく似合ってるよ。すごく綺麗だ」
「美しくて、本当に神様のようです」
 二人がうっとりと呟いた言葉は、恥ずかしくてたまらなかったけれど、鏡に映る自分の姿を見て我ながらボーッとなったのは確かだった。自分の容姿に関してはコンプレックスありまくりだけど、この格好は似合ってるような気がした。
 後にこの自分の格好が後宮を初め国中に反響をもたらすことになるとは、夢にも思っていなかったけれど。
 とにかく、日の出と共に乳香という太陽神に捧げる為の香がふんだんに焚かれ、結婚の儀式が始まったのだった。