「そこで何をしている!」
 振り向くと、鬼のような形相をしたジャハーンが立っていた。
 何でこいつこの時間にここにいるんだ?仕事はどうしたんだ?
 そんな疑問が頭に浮かんだが、俺はとりあえずこいつをなだめることにした。
「ジャハーン、落ち着けよ。何してるって、ただ話してるだけじゃないか」
「潤に聞いたのではない。二人に聞いたのだ!」
 二人って……ウセルとラダメスのことか?
 ラダメスは既に半泣きの状態で、怯えたように俺の足にしがみついてきた。
「ラダメス! お前、自分が何をしているのかわかっているのか! 潤から離れろ!」
 ジャハーンがまたもや怒鳴り散らしたので、震えているラダメスを抱きしめてジャハーンの視線からかばってやった。
「おい、いい加減にしろよ。こんな子供に怒鳴ることないだろ? なんでそんなに怒ってるわけ?」
「潤、お前わからんのか? 二人はまだ子供とはいえ、次期王となるかもしれぬ王子達なのだぞ。その王子達が、王妃であるお前に触れていいわけがなかろう!」
「はあ? なんでだよ。だって、あんた、俺のこと母親だと思えって二人に言ったんだろ?」
「そうだ、お前は二人の母だ。だからこそ、二人の嫁になることもできる立場だ。それを……」
「ちょ、ちょっと待った!」
 俺はクラクラする頭を抱えて、しゃがみこんだ。
 ジャハーン、こいつ一体何考えてんだ?
「つまり、何? あんた、もしかして……二人に嫉妬してんのか?」
「嫉妬だと!」
 ジャハーンがくわっと目を見開いた。
 ……それにしても、本当にこいつはよく怒るよな。わけのわからない理由を持ち出してきては、なんかいつもぷりぷりしてるような気がする。いい加減俺ももう慣れた。
「当たり前だろうが! 自分の嫁の私室に他の男が居て、なおかつ抱き合っていて、嫉妬せん筈がなかろう!」
 他の男って……いや確かに男だけど、二人のこといくつだと思ってるんだよ、こいつは。しかも自分の実の息子だろうが。
「ウセル、ラダメス……とりあえず、今日は帰ったほうがいいみたいだ。こいつの言うこと気にしないでいいからな。またいつでも遊びに来いよ。俺も遊びに行くから」
 ウセルとラダメスは幼いひたむきな瞳で俺をじっと見上げて来た。
 そのウセルの瞳が、ムテムイアと同じ赤褐色だと気がついた時、突然俺の胸に熱いものがこみ上げた。
 ジャハーンとそっくりな顔で、視線の強さも良く似ているのに、やはりウセルはムテムイアの子供なんだとわかる。
「俺達、これから……仲良くしてこうな」
 何か大切なことを伝えたかったけど、うまく言えそうもないので、俺は二人の頭を優しく撫でるだけにした。ジャハーンがまた何か言っていたけど、放っておいた。
 今回の出来事はすごく悲しいことだったけど、ウセルとラダメスは当事者達の血を引いていて、そしてその二人はまだ幼くて、これからどんな未来もどんな可能性もある。そのことに救われるような思いだった。
 二人が部屋を出て行った後も、そんなことを考えてしみじみした気持ちになっていた。
「潤、お前、あの二人と公の場以外で会うことは許さんからな」
 そんなことを低い声で言うジャハーンに、俺は怖い顔をしてみせた。
「ジャハーン、そんなこと二度と二人の前で言うなよ」
「何だと?」
「少しは二人の気持ちを考えてやれよ。ウセルとラダメスはまだ小さいんだぞ。それに今回のことで傷ついている筈だ。そんなあの子達に、これ以上孤独な思いをさせるようなこと言うな」
「……確かに、ミリアムとムテムイアのことは、二人の胸に傷を残したかもしれん。だが、それとこれとは別のことだ。それにウセルは来年七歳になる……預言者の託宣を受ける年だ。もしウセルの嫁が、お前だなどと告げられるようなことになっては困る」
「はあ? 何言ってるんだよあんた。そんなわけないだろ。俺はもうジャハーンの嫁なんだから」
「だが、一人の王妃が二人の王に嫁ぐということは、珍しくも何ともないことだ」
「あのなぁ……そんなこと心配したって仕方がないだろ」
 来年の話をすると、鬼が笑うんだぞ。なんて言っても、こいつは知らないか。
「もし預言者がそう言ったとしても…………俺の旦那はあんただけだよ、ジャハーン」
 俺は小さな声でボソッと呟いた。
 聞こえなくてもいいと思ったけど、ジャハーンはしっかりと耳で拾ったらしかった。
「潤……」
 嬉しそうな顔をして、俺にすりよってくる。
「本当だな。神の預言に逆らっても、お前は私の嫁でいたいと、そう言うのだな?」
 まったくこいつ、何度言わせるんだよ。
 なんかムカついたけど、俺は半ばヤケクソで頷いてやった。
「あー、そうだよ。俺はずっと、あんたのもんだよ!」
 ちくしょう、なんでこんな恥ずかしいこと言わなきゃいけないんだよ。もう二度と言わないからな!
 たぶん真っ赤になっているだろう俺の頬に、ジャハーンは自分のそれをすり寄せてきた。
「……私もだ」
「え?」
「たとえ神に逆らおうとも、私は永遠にお前を愛し続ける。……私はお前のものだ、潤」
 な、何だよ、何だよっ!
 そんな言い方って反則じゃないか?
 ガラにもなくじーんと来ちゃった俺は、潤んできた目を見られたくなくて、ジャハーンの胸に顔を埋めた。
 そのたくましく厚い胸板が、やがて力や輝きを失って老いて行っても、俺はずっとこいつの側に居よう。そして、力の限りこいつを守っていこう。心の中でこっそりとそう誓ったことは、俺だけの秘密にして。
 やがて降り注いで来たジャハーンの強引なキスに必死で応えながら、俺はだけど、と思った。
 だけど俺は、やっぱりムテムイアのこと……好きだったみたいだ。
 もう手の届かない今になって、わかった。
 それは恋と呼べる種類の思いじゃないかもしれないけど、でもジャハーンに対する気持ちと同じくらいの強さで、俺は彼女を慕っていた。ムテムイアは俺の優しい母であり、憧れの人であり、厳しい教師であり、心安らげる友達でもあった。
 あんな人、これからもう二度と現れないだろう。
 彼女の記憶は、時を経るにつれて徐々に薄れていくかもしれないけど、でもけして消えることなく俺の心に刻まれているだろう。そしてジャハーンの心の中にも。
‘あなたはメリタテン様によく似ている。あなたと居ると、とても温かく、優しい気持ちになれる。ありのままのわたくしに’
 ムテムイアの最期の言葉。
 それを思い出す度に、今でも泣けてくる。
 それは悲しいからだけじゃない。嬉しいからでもある。
 ムテムイアの存在が俺を救ってくれたように、俺の存在もムテムイアを少しは救うことができた。そのことを本当に嬉しく思う。

 ありがとう、ムテムイア。
 もし神官達が言うように、来世というものが本当にあるのだとしたら、俺はやっぱりあんたと出会いたい。もしジャハーンがそこにいなければ、俺はあんたに恋をするかもしれないな。
 だけどジャハーンがいたら、俺はやっぱりジャハーンを愛して、そしてあんたに嫉妬するのかもしれない。
 人間って、そういうものかもな。

 俺は彼女の優しい笑顔を思い浮かべながら、少しだけ涙を流した。
 それはすぐにジャハーンの唇に受け止められて、その中に消えていった。
 やがてジャハーンの唇は俺をとろけさせた。激しい律動と共に彼を何度も受け止めた後、俺は気を失うようにして眠りに落ちていった。



第二章  王妃と後宮の女王 完