第三章  孤高の王子と守護神



 シシロ大河の水もやがてゆっくりと引き始め、農業が再びさかんに行われるようになった。
 今年は天災とも言うべき驚異的な量の増水だった為、肥沃な大地の面積もそれだけ広くなり、今から豊作が予想されるという。そのことは、やはり神子である俺のおかげだということで、国民の間では「神子信仰」が盛り上がっているのだそうだ。
 後宮部隊の武術訓練で今日もへとへとになっていた俺は、寝台の上でピピにマッサージをしてもらいながら、その話を聞いたのだった。
「神子信仰って……なんだよそれ。ありがたやって拝まれてるわけ? 俺」
「拝む……そうですね。王宮の方角に向かって礼を取り、神子に感謝を捧げるのです。でもそういう行動よりも、皆が神子の存在の偉大さ、その大いなる力を信じている、ということの方が重要だと思います」
「おいおいおい、勘弁してくれよ」
 何だかぐったりとしてしまった。
 俺は神様になったつもりも、仏様になったつもりも、ましてやなんかの宗教の教祖になったつもりもないんだけど。
 でも正直なところ、そんなことに構っていられる余裕は、今の俺にはないんだ。
 何と言ったって、あの地獄のような武術訓練!
 何なんだあの女達は。どうしてあんなに体力があるんだ?
 見た目は皆奇麗で女らしいのに、いざ剣や槍を持つと、もう強いの何のって。それぞれ小さな頃から護身術として武術を習って来たらしい。中でも女戦士のみで構成されたという部族、アマゾネスの末裔エマルーの強さ、タフさといったら、そんじょそこらの男が5〜6人まとめてかかっても相手にもならないというくらいだった。俺は王妃という立場から、一応隊長の位をもらったわけだけど、はっきり言って今の状況は、みんなが寄ってたかって俺をしごいているという感じだった。
 練習内容は本当にハードで、弱音を許さない厳しさがそこにはあった。でもけして意地悪をされているわけではないし、何かにつけてみんなして俺の体調を気遣ってくれるから、やめたいと思うことはなかったけれど。
 それに、何と言っても、後宮の女達の目が輝いている。
 王を守る為という大義名分のもと、毎日王妃である俺と一緒に汗を流して身体を動かす。そのことが楽しくてたまらないみたいだ。厳しい練習を通して、俺達がお互いに親しみを覚えるようになってきたのも事実だ。まあ、友達感覚っていうより、女達に半ばおもちゃ扱いされていると言えるようなところもあったけれど。
 心地よいマッサージに、疲れも相まってうとうとしかけてきた頃、俺をまどろみから引き戻す無粋な声が聞こえて来た。
「潤! 今帰ったぞ!」
 あー、うるさいっ。
 俺は眠いんだよっ。馬鹿でかい声出すんじゃないっ!
 第一、後宮の女達に聞いたところ、いくら夫婦と言えども、王と王妃は一緒の部屋で眠ることはないんだそうだ。事後、王、または王妃は、それぞれ自分の館に戻っていくものらしい。ジャハーンが公務の後はいつも後宮の母屋(つまり俺の住居)に帰って来て、そこで夜を明かし、また朝になると公務に出て行くということを彼女達に話すと、かなり驚いた様子だった。
 それを思い出すと、どんなに疲れていても、どんなに眠くて死にそうでも、俺はもそもそと起き上がってジャハーンを迎えに出てしまう。やっぱり、あいつの嬉しそうな顔を見たいっていうのもあるんだろうけど。
「ジャハーン、おかえり」
「おお、潤。……お前、今日もだいぶしごかれたようだな」
 ジャハーンが苦笑しながら、俺をひょいと抱き上げた。そしてそのまま湯殿に向かう。
「うん、でもピピが身体を揉んでくれたから、だいぶ楽にはなったよ」
「そうか。まあ、近頃顔の血色も良いから、心配することはないのだろうが。だが良い。今日は、私が身体を揉んでやろう」
「ええっ? あんたが?」
 俺は思わず不審げな視線でジャハーンをジトッと見てしまった。
「なんだ、その目は」
「……だってさ……あんたがやると、なんか変なことになりそうで」
「変なこととは何だ?」
 ジャハーンが面白そうに眉を上げた。
「私の真心を疑うというのか? それとも、それを期待しているのか?」
「ば、馬鹿野郎! そんなんじゃねーよ!」
 真っ赤になってジャハーンの肩を叩くと、ハッハッハッと大声でこいつは笑った。
「今更照れることはあるまい。お前はいつまでたっても初心なままだな。そこがまたかわいいところでもあるのだが」
「か、かわいいって言うな!」
「かわいいものをかわいいと言って何が悪い?」
 ジャハーンが笑いながら俺の頬に唇を寄せてきた。それを手で押しやりながら、俺は不機嫌な声を出してやった。
「俺がそう言われるの嫌いだって、知ってるだろ」
「そうだな。お前が嫌がるのを知っていてそう言うのは、悪趣味だと自分でも思うのだが。だが、恥ずかしがるお前の顔見たさに、つい意地悪をしてしまうのだ。許せ」
「な、なんだよそれ」
「潤、怒ったのか?私が悪かった」
「べ、別に、怒ってなんか……」
「そうか? なら、良いな」
 そう言うなり、ジャハーンが俺の唇を奪い、そのまま熱い舌で掻きまぜてきた。
「んううっ……んんっ……」
 ジャハーンのキスは、いつも嵐のようだ。
 俺の理性だとか、強がりだとか、つまらない意地だとかをすべて薙ぎ倒し、俺の心をめちゃめちゃに掻き回してしまう。優しく激しいそれに俺は翻弄されて、何も考えられなくなってしまう。ジャハーンのこと以外、何も。
 すっかり力が抜けてしまった俺の服を剥ぎ取り、湯船の中で、ジャハーンは意外にも上手に俺の身体を解してくれた。もちろんその後、やることはやったわけだけど……。

 心も身体もトロンとなってしまった俺は、寝台の上でジャハーンに優しく髪を撫でられながら、今にも眠りの世界に落ちようとしていた。そんな俺のつむじや額に何度もキスをしながら、ジャハーンがふと思い出したように呟いた。
「言い忘れていた。潤、私は三日後から、しばらく王宮を留守にする」
 その言葉に、俺の意識は一瞬現実へと引き戻された。