「留守って……何処に行くの?」
「国内の農地の視察だ。一月ほど留守にするが、良い子にしているのだぞ」
「はあ? 一月?」
 俺はガバッと起き上がった。あまりに突然だった為、ジャハーンが間一髪のところで避けなければ、あやうく彼の顎に頭を衝突させるところだった。
「そんなに長い間、行ってるのか?」
「うん? まあ、仕方あるまい。王国は広い。一月でも短いくらいだ」
 俺はジャハーンの顔をまじまじと見つめた。
 こいつ、こんなに平然とそう言ってるけど、一ヶ月も俺に会えなくて平気なんだろうか?あんなに潤潤うるさく言ってるのに、一ヶ月も会えなくてつらくないのか? 不安にならないのか?
 そう思うと、理不尽な怒りが俺の胸に込み上げてきた。
「……俺も行く」
「何だと?」
「俺も行くって行ったんだよ!」
「な、何を言っている! そんなことは許さん。危険だ」
「危険なのは、あんたも一緒だろ」
「私は、別に危険ではない。だがお前は危険なのだ」
「わけわかんないこと言うなよ! とにかく、王を守るのは後宮部隊の仕事だからな」
「何? まさかお前、女達を引き連れて来るというのか」
「全員は無理だろうけど、腕の立つ人を何人か連れて行くよ。それなら問題ないだろ」
「たわけたことを」
 苛立たしげにそう吐き捨てた。そんなこいつの態度に腹が立ち、同時に少しショックを受けもした。だから俺は余計ムキになって言い張った。
「何と言われようと、行くって言ったら行くからな」
「潤、私は許さんぞ」
「どうしてあんたの許しが必要なんだよ? 俺はあんたの家来じゃない」
「そうだ、お前は私の家来ではない。だが私が最も愛し、大切に思う者だ。それをみすみす危険な所へやれると思うのか」
「そんなの俺だって一緒だろうが!」
 俺はわからずやのジャハーンの耳を思いっきり引っ張ってやった。凛々しい眉をひそめて痛みを訴えるこいつの耳元に、思いっきり大声で叫ぶ。
「てめえ、この野郎、よぉく聞けよ! 俺だってあんたが大切なんだよ! 愛してるんだよ! だから離れるのは嫌だし、一人で危険な所になんか行かせたくないんだよ! わかったか馬鹿野郎」
 半ばヤケクソで一息に言い切って、ふうと息を吐くと、ジャハーンは唖然とした顔で俺を見つめていた。
 その顔が苦々しげに歪んだ。
「……潤、お前、何故今そんなことを言うのだ」
 苦い顔が、ふっと笑みを浮かべる。
「お前にそこまで言われては、私はこれ以上お前の意思に逆らうことができぬではないか。……まったく、潤にはかなわん」
 俺の心にサッと陽が差した。
「じゃあ、連れて行ってくれるんだな?」
「……仕方あるまい」
 諦めたように苦笑するジャハーンがたまらなく愛しくて、嬉しくて、俺はそのたくましい首にしがみついた。
「約束だぞ。絶対だからな。黙って俺のこと置いて行ったりしたら、絶交だからな」
「それは困る」
 笑みを含んだその声を聞いて、俺は心から安心した。
 良かった。一度約束したら、こいつは絶対にそれを破らない男だ。王という誇りにかけて、たとえ命に代えてもその約束を守ろうとする、そういう男だから。
 本当は、俺はこの王宮で夫であるジャハーンの帰りを待つべきなのだろう。俺は王と共にこの国を治める王妃なのだから。……でも俺は、男だ。男だからこそ、大切な存在を自分の手で守りたいと思う。安全な場所で一人のうのうとしていることなんてできない。俺は本当に無力で、できることなんて何もないけれど、それでも好きな奴を守りたい。それは男である俺の中に刻み込まれたDNAによるものなのかもしれない。
 でもこの時、これから起こることをもし知っていたとしたら、俺は男のプライドなんて投げ捨ててでも王宮に留まることを選んだだろう。だけど未来に何が起こるかはわからないし、過去の選択をやり直すことなんてできないのが人生というものだ。俺は当然、これから自分の身に降りかかる出来事なんて、これっぽっちも予想だにしていなかった。自分の存在というものが、また一人の人間の人生を大きく変えようとしていたなんて……どうして俺に想像できただろう?
 俺はただジャハーンに甘えて、自分の男心を満足させていただけだった。その自分の愚かさに後悔するのは、また先の話だけれど。

 それから三日後の早朝、俺達は皆に見送られて王宮を発った。メンバーはというと、ジャハーン、将軍ムスタファ、それに王の親衛隊、そして俺と、後宮部隊から選出したエマルー、アジーザ、ノフレト、ターリアの四人と、どうしても付いて行くと言ってきかなかったアマシスだった。勇ましくも華やかな鎧に身を包み、堂々と首都を出発したことに、後宮部隊の四人はえらく興奮していたみたいだった。その様子は、観光に出かける若い女性そのものだった。一番飾りっ気がなく、腕も立ち気の強いエマルーでさえ頬を紅潮させて声高にあれこれ話している。やれやれ、こんなことでこれから大丈夫なんだろうか。まあ、ジャハーンの親衛隊がついているから心配することはないんだろうけど。どうせ後宮部隊は、存在することに意義があるっていうお飾りのようなものだからな。いざって時に自分たちの身を守れるようであれば、それで問題はないだろう。
 それに正直、俺もワクワクする気持ちがなかったとは言い切れない。
 この前首都を離れたのは、アスワン王国の第二王子、ユクセルに誘拐された時のことだった。だから景色なんてゆっくり楽しむ余裕なんてなかったけど、今は違う。側にはちゃんとジャハーンが居る。なんか新婚旅行みたいじゃないか?なんて柄にもなく乙女チックなことをチラリと考えつつ、徐々に変わり行く景観を楽しんでいた。