何処までも続いて行きそうな広大な麦畑が、さんさんと輝く太陽の下で青々としたその葉を揺らせていた。
 この国は本当に大きい。その事実を改めて認識させられて、何だか眩暈がするような心地だ。俺は草の香りを胸いっぱいに吸い込んで大きく溜息をついた。俺の目から見てもいかにも質の良さそうな麦畑だった。
「どうした、潤」
 先を行くジャハーンがふいに俺のほうを振り返った。
「ううん、広いなと思ってさ」
「まるで果てがないようだろう」
「そうだね」
 本当に、果てしないように思われた。一面緑の大地で覆い尽くされて、まるで別世界に紛れ込んでしまったような錯覚さえ覚える。
「今年は水の恵みが豊かでございましたから、麦の育ちが大変良いんでございます。質の良い土が、そりゃもうたくさん運ばれて来ましたもんですから」
 コーヒー色の肌をした、いかにも健康そうなアフラドという男が言った。彼はここの畑を地主から任されているという、いわば農作業監督のような仕事をしているのだそうだ。他の農作業者達は、みんな手を休めて俺達に向かって頭を下げている。
「へえ、それじゃあ今年は麦がたくさん収穫できるんだね」
「そうでございます。質も量も、去年とは比べ物にならないと考えてます。これもみんな神子のお陰様でございます。本当にありがたいことで……」
 アフラドはそう言うと、地面に頭を擦り付けんばかりにお辞儀をした。
「ちょ、ちょっと、やめてくれよ。そんな大袈裟な」
「ですが神子がいらっしゃらなかったら、こんなに畑が潤わなかったですから」
「それは俺のお陰っていうか、天の恵みってやつだろ?」
「そうでございます。本当にありがたいことでございます」
 アフラドはまた頭を下げた。
 こりゃ、ダメだ。ピピが言ってた「神子信仰」っていうのはこういうことか。何となく決まりが悪くてつむじの辺りをポリポリ掻いていると、ジャハーンが笑った。
「ありがたいと言っているのだから、その感謝の気持ちを受け取ってやれ、潤」
「だけどさぁ……」
「良いではないか、それでこの者達は満足するのだから」
 まあ、それもそうだよな。
 俺は気を取り直して、アフラドに向かってにっこりと笑って見せた。
「それじゃあ、まあ、天の恵みというやつを存分に活かして、いい麦をたくさん作ってください。おいしいパンが食べられることを、楽しみにしているから」
「は、はいっ! ありがとうございます!」
 アフラドは感極まったというように、今度こそガバリと土下座をしてしまった。するとそれに倣って、辺りの農民達も次々に土下座をした。
 ……なんだかなあ。
 どういう顔をしたらいいかわからなくて、日本人的な笑顔をへらへら浮かべていると、ふいにたくましく日に焼けた若い男が俺達の前に膝を進めて来た。
「アフラド様」
「おー、ゼキか。そうだな、そろそろご案内を」
 ゼキと呼ばれた男はコクリと頷くと、俺とジャハーンに向かって深々と頭を下げた。
「ゼキと申します。今夜の宿のお世話をさせていただきます」
 ジャハーンはそれに向かって鷹揚に頷いて見せた。
「わかった。案内せよ」
「かしこまりました。では、こちらに」
 ゼキは再び深く頭を下げると、俺達に背を向けてゆっくりと歩き出した。ジャハーンがそれを追うので、俺もついて行こうと歩き始めると、ふいに後ろから伸びて来た腕に服をつかまれた。
 見ると、後宮部隊のエマルーだった。
「何?」
「神子、ご覧になりましたか。今の男、なかなかの腕の持ち主かと」
「ゼキって人のこと?」
「はい。筋肉のつき方が、武術を嗜む者特有の形をしています」
「じゃあ、そうなんじゃないの?」
 そう言って再び歩き出そうとすると、エマルーがちょっと怒ったように俺の後について来た。
「ゆめゆめ油断召されますな。いつ何時何か起こるかわからないのですから」
「そうだけどさ、今はジャハーンもいるし、親衛隊も居るし、それにあんた達もいるじゃん。そんなに心配することないと思うけど」
「ですが……」
「神子、お気になさいますな。エマルーは、ちょっといい男を見るとすぐにこうなのですわ」
 アジーザが俺の隣、エマルーとは反対側を歩きながら、ふんと笑った。
「アジーザ、何を言うのです。わたくしはそなたのような邪な目で男を見ることはしない」
「邪とは何です、失礼な! わたくしはただ事実を申しただけのこと。あなたはたくましく見目良い男を目にすると、すぐそんなことを言って騒ぐではありませんか」
「見目良い? あれが? たしかに体格は良かったけれど、騒ぐ程の顔では」
「んまあ、あなた目が悪いのではなくて? 目が細くて切れ長で、なかなか涼しげな顔立ちでしたわよ。少し無愛想だけど、そこがまた」
「それはそなたの趣味でしょう。わたくしはもっと繊細な顔の方が……たとえば神子のような」
 エマルーはそう言って頬を少し赤らめた。……あ、あのぅ……。
「あなたはどちらかというと男より女の方が好きですものね」
 ちょっと待ってくれ。今のどういう意味だ?
「別に男が嫌いなわけではない」
「でも、女のようにたおやかな男が好きなのでしょう。ああ嫌だ。自分が男らしいからって、殿方に可憐さを求めるなんて。わたくしはやはり、力強く、雄々しい方のほうが……」
「エマルー、アジーザ、いい加減にしろよ! くだらないこと言ってると、置いてくぞ」
 ちょっと強く言ってズンズン歩き出すと、慌てて二人が後からついて来た。
 ノフレト、ターリアの二人は顔を見合わせてクスクス笑っている。
 ああまったく、どいつもこいつも。
 アマシスが他の役目で居ないからまだ良いものの、あいつがこの場に居たら、もっと変な話になっているような気がする。俺、人選を間違ったんだろーか。
 ぶつぶつ言いながら足を急がせて、俺はジャハーンにやっと追いついた。
 すると、ゼキが言った。
「お二人に徒歩などさせて申し訳ありません。もうすぐでございますので」
 その言葉の通り、いくらも歩かないうちに、前方に白い建物が見えてきた。あれが今夜の宿か。
 アマシスはもう宿に着いているかもしれない。あいつがゼキを見て何と言うかなとふと考えて、俺はうんざりと空を仰いだ。アマシスが何か言い出すということは、ジャハーンもそうなる可能性が高いってことだ。
 俺は嫌な展開を想像して、重い溜息をついたのだった。