水浴をしてさっぱりした後、俺は屋敷の中庭に出て涼んでいた。
 夜風に含まれた緑のにおいを胸いっぱいに吸い込むと、なんだかなつかしいような気持ちになった。俺が住んでいたところではこんなにおいを嗅ぐことはできないけれど、父方の田舎では今も可能かもしれない。それは俺の故郷ではないけれど、それでも時々むしょうに恋しくなる場所だった。
 何故だろう。自然は常に人を惹きつける。帰りたいと思わせる何かがある。きっと俺達人間の細胞に刻み込まれた本能なんだろう。
 空を見上げると、怖いくらいの星がぎっしりと夜空に輝いていた。
 この国にきたばかりの時、もしかしたら知っている星座があるかもしれないと思って探そうとしたけど、もともと星にくわしいわけでもないし、あまりにもたくさんの星が輝いているので、すぐにあきらめた。
 知らない世界の、知らない星たち。
 でももしかしたら地球から見える星と同じかもしれない。あるいは、違う角度から見た同じ宇宙なのかも。
 そう考えていればいいんじゃないかと思った。真実はどうであれ。
「潤」
 俺を呼ぶ声に振り返ると、ジャハーンが笑っていた。
「お前、また星を見ていたのか」
「え? ああ……うん」
 そうだな。星を見ようと思って中庭に出たわけじゃないんだけど、気がつくと星を見上げていたんだ。
「よくもまあ、飽きんものだな。お前は夜になると星ばかり見ている」
「そんなことないよ」
 別にそれほど星に興味があるわけじゃない。ただ、満天の星空は未だに俺には珍しいものだったから、目に入るとついつい見とれてしまうだけだ。
 そう言うと、いつもジャハーンや他のやつらは不思議そうな顔をする。それはそうだろう。この星空が当たり前の彼らには、星のまばらな空なんて想像できっこないだろう。東京の夜空を見たら「この世の終わりだ」とか何とか言って怖がるだろうな。いや、その前に高層ビルや街の灯りの群れに腰を抜かすかな。
 そんなことを考えて一人でクスクス笑っていると、ジャハーンが俺の腕を捕まえて自分の方に引き寄せた。
「何だ。何がおかしい?」
「なんでもないよ」
「おい、言え。何故笑う?」
「教えない」
 俺はイーッとしてみせた。とたんにジャハーンは怖い顔になる。
「こら、言え、言わぬか」
「やだよ」
 俺が笑いながら言うと、ジャハーンも困ったように笑った。
「おい、潤、お前卑怯だな」
「なんでだよ?」
「そんな顔をされては、これ以上強情に聞けんではないか」
「あははは、作戦勝ちだな」
「こら、調子に乗るではない」
 ジャハーンが笑って顔を寄せてきたので、俺は目を閉じてそれを待った。
 今にも唇が触れ合わんとした、その時。
「お取り込み中失礼致します。夕餉の支度ができましてございます」
「うわあっ!」
 俺は驚いて飛び上がった。
 薄闇の中に、ゼキが跪いていたからだ。
 いつから? 全然気がつかなかった。
 ひょっとして今の会話とか全部聞かれてたのか? うわあ、なんかめちゃくちゃ恥ずかしいんですけど。
 俺が顔を赤くしてジャハーンの背に隠れると、ジャハーンは不機嫌そうにゼキを怒鳴りつけた。
「無礼者が! 状況をわきまえろ」
「ご無礼致しました」
 低い声で冷静に返すゼキの言葉に、ジャハーンは何だか毒気を抜かれたような顔をした。
「まあ良い。夕餉か、わかった。潤、行くぞ」
「う、うん」
 ジャハーンに手を引かれて歩きながら、俺はそっと後ろを振り返った。
 ゼキはその場にひれ伏したままだった。
 何となくホッとして前を向こうとすると、ふいにゼキが顔をあげて俺を見た。
 それは怖いくらいの鋭い視線だった。
 俺はハッとして息を飲んだ。だがすぐにまた彼は顔を伏せてしまった。
 それは一瞬のことだったけれど、俺の心に奇妙な不安を植え付けたのだった。

 その事件が起こったのは、それから数時間経った真夜中のことだった。
 後にジャハーンが悔しそうに語ったのを覚えている。「存在を甘く見ていた。あいつらは常人離れした技を持っているばかりか、与えられた使命はその命を賭けて遂行するのだ」
 そんなにもすごい連中が、身分を偽って俺の目の前に現れたなんて、もちろんその時はまったく気がつかなかった。
 ただ一瞬の出来事だったような気がする。
 真夜中、喉の渇きを覚えて水を飲もうと寝台を抜け出したが、部屋に置いてあるはずの水差しがなかった。さっきまではあったのに、おかしいなと思ったが、寝ぼけた頭はそれを不審に思うほど働いてはくれなかった。
 俺は台所まで行って水をもらおうと思い、部屋を出たその時。闇の中から伸びて来た腕が俺の身体を捕らえ、口元に布らしきものを宛がった。変なにおいだと思ったときにはもう遅く、俺は身体中から力という力が抜けていくのを感じた。
 やられた。
 そう思ったけれど、俺にはもう何もできなかった。
 誰かの怒鳴り声や、足音や、剣と剣がぶつかり合うような音、衝撃、震動、それらの嵐に飲み込まれて、俺は次第に意識をブラックアウトさせていった。
 たとえ俺の自由を奪ったとしても、腕利き揃いの王親衛隊から逃れることは不可能だろう。彼らが俺が連れ去られようとしていることに気がついてくれたなら、もう安心だ。
 その考えが甘かったということに気がつくのは、意識が戻った時に目の前に居た男の姿を見た時のことだった。