その端正な顔を見たとき、俺は我が目を疑った。
 夢を見ているのかと思ったくらいだ。それほど思いがけない人物だった。
「やあ、久しぶりだねジュン」
 優しげに微笑む甘い顔。
 でもその瞳には暗い情熱を燃やしている……そう、アスワン王国の第二王子、ユクセルだった。
「ユ、ユクセル……どうして」
 俺が呆然として力なく呟くと、ふいにユクセルは俺に向かって手を伸ばして来た。
 恐怖を覚えて思わず後ずさると、ユクセルはふっと片頬を歪めてから、強引に俺の顎を掴んだ。
「い、痛っ……」
「どうしてだって? 僕はね、常に機会を狙っていたんだよ。君を再び手中に収めるその機会を」
「も、もしかしてゼキって……」
「ああ、あいつは僕の奴隷さ。刻印つきのね」
 その言葉の意味がよくわからなかったけれど、俺は痛みを与えるユクセルの手を力任せに振り払った。
「な、なんで俺にこだわるんだよ! 俺なんか手に入れても、仕方ないだろうが」
「おやおや、僕は言った筈なんだけどね。僕の即位には君が必要なのだと」
「だ、だけど、俺が居たからって、そんな簡単に王様になんてなれないだろ」
「それでも、かなり有利な立場にはなる。それに……」
 ユクセルはスッと俺に顔を近付けて来た。色素の薄い長いまつ毛が、数回瞬く。たぶん俺が女だったらうっとりしてしまうくらい、優雅な仕草だった。
「僕は君に会いたかった」
「えっ……な、なんで」
「そんなこと知るものか。僕が聞きたいくらいだ」
 吐き捨てるように言って、ユクセルは俺の頭を両手で掴んだ。
「……君は、太陽王の妃になったんだってね」
「え、あ、うん」
「噂には聞いているよ。その預言通りシシロ大河は大氾濫を起こし、君のお陰で命が失われることなく大いなる恵みを授かったと。そして、君が太陽王の後宮に革命を起こしたと……ずいぶんご活躍のようだね」
「俺は、別にそんな」
 ここしばらく何度も言われて来た言葉だが、改めて言われるとやっぱり面映い。
 居心地が悪そうにモジモジする俺を、ユクセルは黙ったままじっと見つめていた。その表情が、少しだけ和らいだように感じたのは気のせいだろうか?
「君は相変わらずだね」
「え?」
「奇跡を起こして皆に崇めたてられているのに、それを誇りには思わないのかい?」
「奇跡って……だって、そんなの俺の力じゃない。俺がそうしようと思ってそうなったわけじゃない。そりゃ、たくさんの命が助かったことは嬉しいと思うけど」
「神子の言葉とは思えないな」
「俺は、俺だろ。神子とかそんなの関係ないじゃん」
 ユクセルは俺を見つめながら、ふと目を細めた。
「……いや、君はどうやら変わったようだね」
 その表情は本当に優しげで、俺はこいつの本性を知っているにも関わらず、あやうく錯覚しそうになる。いつも冷たい光を湛えているその瞳までもが、あまりにも穏やかな色を宿していて……つい心の警戒を解いてしまいそうになる。
「うん、自分でもそう思うよ。俺は少し変わったって」
「へえ? どんな風に?」
「……やれることを、やろうと……そう思えるようになった。目の前の現状にただ文句を言うんじゃなくて、今自分にできることは何か、やるべきことは何か。それを探して、それでそれに一生懸命取り組めばいいんだって。そうしたら、自分の居場所ができたんだ」
「……自分の、居場所。それって一体何なんだい?」
「なんていうか、ここに居てもいいんだって思える、そういう心の問題だとは思うんだけど。少なくとも前みたいな居心地の悪さはなくなったから」
「君は、王国では居心地が悪いと?」
 ユクセルの視線が急に鋭さを増して俺を射抜いた。それに少し首をすくませて、でも俺はその瞳を見つめ返した。
「居心地が悪かった。でも、今は違う」
「何故? 神子と崇めたてられ、富も権力も思うがままだというのに」
「それは与えられたもので、俺が自分で勝ち取ったものじゃないじゃん。与えられたものはいつか急になくなってしまう気がする。それにそうなっても、俺には何の文句も言えないんだ。でも自分で得たものは、努力を怠らない限り理不尽になくなってしまうことはない。そう思うんだけど……俺の言ってること、わかる?」
 ユクセルに尋ねながら、俺は何でこいつに向かってこんなことを熱心に語っているんだろうと思った。こんな状況で、自分に危害を加えるかもしれない相手に。
 ユクセルはでも、以前みたいに俺の言葉を鼻で笑ったりはしなかった。
「……よくわかるよ、とてもね」
 そう静かに呟くと、おもむろに立ち上がった。
 それを見上げて、俺は慌ててユクセルの服の裾を引いた。
「ちょ、ちょっと待った。俺を帰してくれよ。俺なんか居たって仕方ないって。俺の気持ちがわかるんなら、俺を俺の居場所に帰してよ」
「それとこれとは話が別だよ」
 ユクセルは俺の手を掴んで、グイッと上に引き上げた。不安定な体勢に慌てて目の前にあったユクセルの首にしがみつく。するとまるで、俺達は抱き合っているかのようだった。
「君を太陽王の元へは帰さない……絶対に」
 耳元で囁くように言われて、俺は思わず頬を赤くした。
「な、何だよそれ。そんなこと言われたって困るよ」
 俺が触れ合っていた頬を引き剥がすと、ユクセルの淡い紫色の瞳が至近距離から俺を見つめていた。何故だかそれが哀しげに見えて、俺はうろたえる。どうしてこいつ、こんな目で俺を見るんだ?
「困ろうが怒ろうが、君を僕のものにする」
「はあ? ば、馬鹿にすんなよ。俺はモノじゃないっ。それに、この前みたいに絶対ジャハーンが助けに来てくれる」
「それはどうかな」
 ユクセル独特の笑い方で、彼は笑った。優しげな表情を取り繕った、冷たい微笑みで。
「いくら太陽王と言えども、他国ではそうそう無理はできないよ」
「えっ……」
 俺は想像もしていなかったある可能性に気がついて、身体中の血の気が引いていくような心地がした。
「そ、そういえば……ここってどこなんだ? まだ、王国の中なんだろ?」
 だけどその言葉は、今度こそ鼻で笑われてしまった。ユクセルは俺を抱きかかえたまま歩いて部屋の中を移動し、俺をそっと敷物の上に下ろした。そして、俺に向かってわざとらしいくらい丁寧なお辞儀をして見せたのだった。
「我がアスワン王国へようこそ、神聖なる神子、ジュン王妃」