その言葉を聞いた時、俺は衝撃のあまり言葉を失い、ただただ口をあんぐりと開けて放心していた。傍から見たら相当のアホ面だったと思う。
「……な、なんで……そんな、いつの間に……」
 そんな俺の顔はかなり滑稽だったのだろう、ユクセルは苦笑した。
「君は薬のせいでずいぶん長いこと眠っていたんだよ。アスワン王国と言っても、国境ぎりぎりの場所だけどね。夜が明けたら王都へ向けて出発する」
「夜が……って、い、今っていつ?」
「まだ陽が暮れたばかりだよ。さあ、仕度をさせたから、水浴をしてくるといい。その後食事にしよう」
 ユクセルが手を叩くと、何処からかわらわらと数人の女達がやって来て、俺を湯殿へ引き連れていった。彼女達は全員中年とも言うべき年のようだったが、それでも女性の前で裸を晒すのはかなり恥ずかしくて、俺は必死になって抵抗した。
「ちょ、ちょっと、や、やめてくれ〜っ! ああっ、下着だけは勘弁してほんとに!」
 だけど何にしても多勢に無勢というやつだ。あっという間に俺の衣服は剥ぎ取られ、浴槽に放り投げられた(というのは言葉のアヤだけど)。仕方ないからとりあえず身体の汗やこびりついた砂を洗い流して浴槽から上がると、今度は例の香油の壺を持ってにじり寄って来た。
「う、うわーっ、ちょっと待って、それはほんとヤバイって!」
 いくらなんでもそんなこと女の人にさせられない。そう思って断固拒否した。言葉は通じないようだったけど、俺の悲壮たる思いが通じたのか、はたまた泣きそうな俺に同情したのか。女達は仕方がないという顔をして許してくれた。
 その後変わった衣装を着せられた。これがアスワン王国風なんだろうか?いわゆるワンショルダーというやつで、左肩だけノースリーブになっていて、右肩は肌を見せるようになっている。裾が長く、「王国」と違ってベルト等はしないようだ。足元がサンダルっていうのは同じみたいだけど。それにしてもこれは女性用の衣装のような気がするんですけど。確かに俺は女みたいな顔してるモヤシっ子だけどな、ちくしょう。嫌がらせかい。
 その後また別の部屋に通された。天井が高く、壁が少ない外に面している部屋だった。潮の香りのする夜風が熱気を冷まし、心地よかった。
 ユクセルは豪奢な敷物の上に胡座をかいて座っていたが、俺に気がつくと聞きなれない言葉で何か言った。どうやら俺ではなくその後ろに居た侍女に言ったみたいで、その侍女が俺の背を優しく押して、ユクセルの側に座らせた。
「やあジュン、さっぱりしたかい……おや、香油を塗らなかったのか?」
「お、女の人にそんなことさせられるかよ!」
「おかしなことにこだわるんだな、君は」
 ユクセルは面白そうな顔で俺の頭を引き寄せて、髪に鼻を埋めた。
「でも、このままでもいいね。君はいい匂いがするから」
 俺は腕を突っ張って逃げながら、首を傾げる。
「え? いい匂い? そんなのするか?」
「赤ん坊みたいな匂いがする」
 そう言って嬉しそうに笑った。赤ん坊みたいな匂い? それってあれだろ? ミルクみたいな甘い匂いのことだよな。そんなこと言われたことないけどな。でも考えてみればこの世界に粉ミルクなんてあるわけないから、微妙に匂いも違うのかな。
 やけに機嫌の良いユクセルの隣で、腹が減っていた俺はとにかく出された食事を腹に収めることに専念した。こうなりゃヤケだ。喰いまくってやる。そう思ってガツガツ食べていると、隣で呆れたような声がした。
「まったく、その細い体の何処に入るんだろうね」
 うるさいっ。細いって言うな、ひきしまっていると言えっ。
 これでもなあ、最近の武術訓練で少しは筋肉ついたんだぞ。……アマゾネス出身のエマルーと比べると、少し足りないかなってくらいだけど。いやけっこう負けてるかな……。大体、エマルーが普通じゃないんだっ。女のくせになんであんなにたくましい体してるんだよ。マドンナ級だぞ。
 ぶつぶつ口の中で負け惜しみを呟く俺を、ユクセルはじっと見つめていた。

 食事の後少し胃を休めて、ユクセルはおもむろに俺を抱き上げた。どうでもいいけど、どいつもこいつも嫌になるくらい軽々と俺を抱くんだよな。俺ってそんなに軽いんだろうか?それともこいつらが馬鹿力なのか?俺のデリケートな男心はこんなことでも少し傷ついてしまうというのに。
 先ほどの部屋に運び込まれた俺は、寝台に下ろされて、ふとあることに気がついた。
 さっきとは違う匂いがする。
 多分香油だろう。だけどこの前さらわれた時とは違う匂いだ。
 甘く、濃厚な花のような匂い。何処かで嗅いだことがあるような……。
 俺が鼻をひくひくさせているのに気がついたのか、ユクセルは俺の隣に腰掛けて言った。
「薔薇の香油を焚かせている。緊張を解きほぐし、精神を沈静さる効果があるから。それに……人を酔わせる力もね」
 よ、酔わせるぅ?
 なんだか穏やかじゃない言い方だ。そう思っていると、ユクセルの手がすっと伸びて俺の腰を抱いた。な、何なんですかこの手。嫌な予感がするんですけど。
 そーっと彼の顔を見上げると、驚くほど近くにそれがあって、俺は思わず「わっ」と声を上げて仰け反った。
「……まったく、色気のない」
 ユクセルは溜息をつきながら、俺の身体をゆっくりと寝台の上に押し倒した。
「え、ちょ、ちょっと待って」
「嫌だよ」
「嫌だって、あ、あんたね。いや、大丈夫。話せばわかる。少し冷静になろうよ」
「……うるさい口だね」
 そう言って、ユクセルは有無を言わせずその唇でもって俺の口を塞いだ。
「! ……や、……んんッ」
 舌でざらりと歯列を舐められて、俺は頭を振ってそれから逃れようとした。だけどその舌はあまりにも巧みで、俺はすぐに翻弄されてしまいそうになる。やっぱりジャハーンとは全く違うやり方の、深いキス。キスにも性格が表れるんだろうか。ジャハーンのキスはいつも、強引で力強くて嵐のようだった。時に激しく、時に優しく、俺の心を掻き乱していく。それがジャハーンが俺を愛すやり方だった。
 そんなことを考えているうちに、ユクセルの唇はいつの間にか移動して、俺の首筋を啄ばみ始めた。こういう時に別のことを考えてしまうのは、俺の悪い癖だ。
「あ、ちょっ……い、嫌だっ」
 俺は慌てて抵抗した。冗談じゃない、犯られてたまるか。
 だけどふいに痛いくらいきつく吸い付かれて、俺は思わず高い声をあげてしまったのだった。