ゆったりと大地に横たわるシシロ大河が、朝焼けに染まっていた。
 葦の茂みも、ナツメヤシの木々も、そして俺達も、皆一様に眩しいオレンジ色の光に照らされている。
 夜が明ける。
 一日が始まる。
 新たな門出にふさわしい、雄大な光景だった。
「きれいだな」
 誰にともなくそう呟くと、隣に立つジャハーンが俺の腰を抱いた。
 なんだよ、と顔を見上げると、ジャハーンは目を細めて見つめ返してくる。
「お前の肌は白いゆえ、朝日に溶けてしまいそうだ」
「なんだよそれ。溶けるかっつうの」
「そうだな」
 そう言ってジャハーンは微笑んだ。
 そっけなく否定したけれど、そう言いたくなる気持ちはわかる。
 俺達は長い間離れ離れになっていて、ついこの間再会したばかりなんだ。まだ胸の中には不安がわだかまっていて、そんな筈はないのに、目を離すと相手が居なくなっているかもしれない……そんな思いに捕らわれることがある。ジャハーンもきっとそうなんだろう。
 腰に回されたたくましい腕の上に、そっと自分の手を重ねて、俺は川へ目をやった。
 中型の船が一艘、出港準備を終えようとしていた。
 荷の積み込みをしていたその中の一人が、自分の仕事を終えたようで、こちらに向かって歩いて来た。
 静かな灰色の眼差し。
 ゼキだった。

 結局、ファトマは王宮に残ることになった。
 今回の事件において、彼女は不幸な被害者でしかないから、俺は全面的に彼女の面倒を見てやるつもりでいた。静かに暮らしたいと言うならば、それなりの土地に家を構えて住まわせてやろうと思っていた。王妃になった俺には、色々な畑や工場が与えられていて、そこでの利益の多くを自由にすることができる。だからそれくらいの費用なんて、どうってことはないのだ。
 だけどファトマは、俺の側に残ることを選んだ。
 と言っても、俺と直に接する立場を望んだわけではない。俺の姿が時折でも拝めれば、それでいいのだそうだ。俺としては、彼女さえそうしたいのなら、後宮で働いてもらうことだってできると思っていたけど、顔に刻印を刻まれた彼女にとって、華やかな美女達が暮らす後宮での暮らしは、精神上あまり良いこととは思えなかったし……ファトマがもともと整った顔立ちをしているだけに、余計に辛い思いをするかもしれないし。
 まあそういった色々なことを考慮した上で、彼女には王宮の裁縫係というところで働いてもらうことになった。俺にはよくわからないけど、ファトマは嬉しそうにしていたから、ある種の女性にとって縫い物っていうのは楽しいものなのかもしれない。
 ファトマの方はそういう形で落ち着いて、何の問題もなかったわけだけど、ゼキの場合はそうは行かなかった。
 何しろ、俺の身近にいる人間の多くが、ゼキが俺をさらう所を目撃しているのだ。
 ゼキのおかげで俺は戻ってこられた、ということを頭では理解できても、やっぱり色々と複雑な感情が残るのは無理もないと思う。ゼキはやはりユクセル王子の諜報員で、王国内部の様子を伺っているのではないか、という意見も少なくないらしかった。

「やっぱり、行っちゃうのか」
 朝日を背にしてその場に膝をついたゼキに、俺は未練がましく訊ねた。
 ゼキはいつもの低めの声で、冷静に答えた。
「それが誰にとっても良い結論かと」
「だけど、だけどせっかくファトマも自由になれたのに、また兄妹離れ離れになっちゃうなんて……」
「新しい環境に早く慣れるには、家族や親しい友人は側に居ない方が良いのです。私が居ては、妹に余計な逃げ場を与えるだけですから」
「でも……」
「それに」
 ゼキはほんの少しだけ笑みを口元に浮かべて、俺を見上げた。
「私は長い間あちこちを放浪する生活を送って居りましたから、今更ひとつところに身を落ち着けるのは、性に合わないようです」
 そういう、ものなんだろうか。
 俺が釈然としない顔で黙り込むと、ゼキが腰元につけていた小さな巾着から、布にくるまれた小さなものを大切そうに取り出した。布を丁寧な手つきで払い、それを俺に向かって差し出す。
「遅くなりましたが、お借りしていたものをお返し致します。これにどれだけ勇気付けられ、またお力をいただけたことか。身に過ぎた御厚意をかけて頂きまして、御礼の言葉もございませぬ」
 それは、脱出の夜にゼキに貸した指輪だった。
 俺が受け取ろうと手を伸ばすと、横からジャハーンがそれをひょいと掴んだ。
「確かに受け取ったぞ、ゼキ」
 ゼキは眩しそうな顔をしてジャハーンを見上げると、その場に深く頭を下げた。
 その時、船の方からガンガンガン、という音が聞こえた。
 何かの金属板を、棒のようなもので叩いているような音だ。出港の合図なんだろう。
「それでは、私は失礼致します。……神子」
 ゼキは真摯な瞳で俺を見つめた。
「私は、この命も、心も、神子に救っていただきました。あの夜、貴方様に頬を打たれて叱責のお言葉を頂いた時のことは、生涯忘れ得ぬ思い出でございます。御身に異変ある時は、いずこの地に居りましても駆けつけ、この命を賭けて御身をお助け致します」
 静かだけど強い声で語られる言葉を聞いているうちに、目がだんだん熱くなってきてしまって、俺は照れくささを装って俯いた。話題を変えようと思って、以前から気になっていたことを口にしてみる。
「そういえばさ、ファトマもゼキも俺のこと守護神とか何とか言ってたけど、あれって結局何だったんだ?」
 ゼキが、ああ、と言って微笑んだ。と言っても、こいつのことだから本当にうっすらと微笑んだというくらいだったけど。
「アスワン王国では、神子のことは守護神だと言われて居たのです。シシロ大河の大氾濫から王国の民の命を救ったのですから、アスワンにいらっしゃれば、きっと我々のことも守ってくださるだろうと……少なくとも民は皆そう信じております」
「ええ? なんだよそれ」
 俺が困った声を出すと、ゼキは珍しく声を出して吹き出した。
「貴方様は本当に、自覚がおありでないようだ」
「自覚も何もさあ、誤解だって。俺そんな大層なモノじゃないから」
 俺が慌てて手を振ると、船でまたガンガンガンと音が鳴った。どうやら早くしろと言っているらしい。
「それでは、太陽王、そして王妃、御前失礼致します。旅の地より、お二人のご健康と、この国の繁栄をお祈り申し上げております」
「うん。ゼキ、あんたも元気でな……色々とありがとう。これから頑張れよ」
 俺が貧しい語彙力で必死に言葉を重ねている横で、ジャハーンは鷹揚にひとつ頷いただけだった。
 ゼキは深々と一礼をすると、くるりと身を翻し、あっという間に船まで走っていってしまった。
 ゼキが船の中に姿を消すと、間もなくして船はゆっくりと動き始めた。
 シシロ大河の流れに乗って、これから海に出てゆくのだろう。
 俺は船がだんだん遠くなって行くのを、ジャハーンに寄りかかりながら見つめていた。
 ゼキはこれから、どんな遠くまで旅をして行くのだろうか。きっと今まで行ったことのない異国へ向かうに違いない。はるか遠く、いくつもの海や山や大陸を越えて行けば、ひょっとしたら何処かに日本に似た国もあるかもしれないな。そんな旅をするであろうゼキを、少しだけ羨ましく思う気持ちもあったけれど、俺はやっぱり、側に居るこのぬくもりが愛しかった。
「行っちゃったな」
 そう呟くと、ジャハーンがああ、と頷いた。
「あれは大した男だ。並大抵のことでは命は落とすまい」
「うん、そうだな」
「いずれまた、妹と会える日も来よう」
「……うん……そうだな」
 ジャハーンは、俺をなぐさめようとしているのだろうか。
 そんなことを考えていると、おもむろにジャハーンが俺の手を取った。
 そして、さっきゼキから返してもらった金の指輪を、薬指にスルリと填めた。
「少し、痩せたな」
 指輪は緩かった。
「うん。でも、すぐにまたピッタリになるよ」
「だと良いが」
「なるなる」
「では、今日から食事を元に戻すとするか」
「えっ本当? やったね! さすがにパン粥ばっかでうんざりしてたんだ」
 俺がことさら明るく喜んで見せると、ジャハーンが呆れたような顔をした。
「やれやれ、つい昨日まで寝込んでいた者の言うこととは思えんな」
「うるさいなあ。あーあ、メシの話してたら腹減って来ちゃったよ。俺、王宮に戻ったら魚とか肉とか、腹いっぱい食べたいなあ。あとは、油コッテリの料理とか」
 ジャハーンが声を上げて笑った。
「わかったわかった。それでは、戻るとするか」
「うん!」

 俺達は、離れた所で待機している輿に向かって歩き始めた。
 何処からか、乳香の香りが漂ってくる。
 太陽はすっかり地平線を離れ、空は淡いピンクがかった紫から、爽やかな青色に変わろうとしていた。
 俺はユクセルの淡い紫色の瞳を思い出して、何とも言えない気持ちになった。
 だけど顔を上げると、この指輪よりもずっと温かな色をした、ジャハーンの瞳が俺を見つめていた。
 俺はその金の瞳に向かって、満面の笑みを浮かべて見せたのだった。



第三章  孤高の王子と守護神 完