商用船を装ったその船に引き上げられてからというもの、俺は神経がすっかり興奮してしまって、何がなんだかわからなかった。見知った顔が居たような気もするけれど、俺はただ一人の姿を探していて、他の人間の顔なんてよく識別できなかった。俺はただ、あいつを探していた。
「潤!」
 空気をビリビリと震わすような声に名前を呼ばれて、俺は振り向こうとした。
 でもその前に、力強いその腕に身体をさらわれてしまった。
「潤……潤!」
 ジャハーン。
 どんなにこの腕を求めたことだろう。
 俺をきつく抱きしめるその腕を。
「ジャハーン……」
 俺はジャハーンの顔を見上げた。
 でも涙でぼやけてよく見えない。俺は手の甲で目を擦った。もっとちゃんとジャハーンの顔が見たい。本物だって確認したい。夢や幻じゃないんだって、この目でしっかりと確かめたい。
 だけど涙は後から後から溢れてきて、俺の視界が晴れることはなかった。
「ジャハーン、よくあんたの顔が見えない。あんた、ちゃんとそこにいるんだよな?」
 ジャハーンは低く唸ると、俺の額に自分の額をくっつけた。
「私はここに居る。目の前で、こうしてお前をきつく抱いているではないか。私の方こそ聞きたい。お前は本当の潤なのだな? 本当に私の許へ帰ってきたのだな? もしこれが夢なら……」
「ジャハーン!」
 俺はジャハーンの首にしがみついた。
「そんなこと言うな! 夢じゃないって言ってくれ。俺はちゃんとあんたの許に帰ってきたんだって、そう言ってくれよ!」
「……ああ、そうだ。お前は、こうして私の許へ帰ってきた。帰ってきたのだ、潤」
 身体が震える。
 ジャハーンの声が、ぬくもりが、匂いが、まるで砂漠に水が沁みこむみたいに、俺の心に満ちて行く。
「よくぞ、よくぞ逃げ出せて来れたな……!」
 心なしか少し潤んだ声で、ジャハーンがそう言った。
「ゼキのおかげだよ。ゼキと、ファトマが居たから……ああ、俺、あんたに話さなきゃいけないことがたくさんあるんだ」
「そうか。わかった……わかった。だが話は後だ。今は身体を休めろ。お前、自分がどんな顔色をしているかわかっているのか? 真っ青だ。せっかくこうして戻ってきてくれたというのに、お前が病にでもかかっては何にもならぬ。さあ、まずはその冷えた体を温めなければ」
「だけど、俺……ああ、そうだ、ゼキとファトマを……ファトマは怪我をしているんだ……俺のせい……なんだ。ゼキも……だから……」
 安心したせいか、急激に遠くなっていく意識を必死で繋ぎとめながら、俺は声を振り絞った。
「ゼキと……ファトマ……を」
「詮議は後だ。お前はもう余計なことは考えずに眠ってしまえ」
「いや……だ……眠り、たく……ない。ジャハーン……いやだ……」
「私はここに居る。離れろと言ったってけして離れはしない。お前の側に居る。だから、安心しろ」
「ほんと……に?」
「嘘などつかぬ。お前の側に居る」
 眠い……眠くて死にそうだ……だけど、ここで眠ってしまったら、こうしてジャハーンに会えたことが夢に変わってしまう気がして、怖いんだ。
 だけど、だけど……もう、駄目……だ……。
 俺はジャハーンにしがみついたまま、深い眠りに落ちたのだった。

 夢を見ていた。
 青空が、まるでドームのように大地をすっぽりと覆っている。
 雲ひとつない。
 太陽が天頂で輝いている。
 心地よい暑さ。
 俺は腕を伸ばして、全身で太陽の光を浴びる。
 こうしていると、身体に力が満ちてゆく気がする。
 生きていくのに必要な力。
 笑うのに必要な力。
 希望を持つのに必要な力。
 そういう力を、与えてくれる。
 太陽がなければ、人は生きて行けない。
 俺にとってのそれは……
 それは……あいつだ。

「ジャハーン」
 何処?
「私はここに居る」
 俺は声のした方に身体を摺り寄せた。するとすぐに温かいものに触れた。
 その温もりは俺を優しく抱きしめてくれる。
 ああ、良かった。
 太陽はちゃんとここにあった。
 安堵の余り涙が浮かんだ。
 目を開けると、ジャハーンは寝台の上で俺の傍らに横たわっていた。
「……俺、どのくらい寝てた?」
「丸一日は眠っていたぞ。じきに夜明けだ。もう少し眠っていてもかまわん」
「起きるよ」
 だけど俺は身体を起こすことが出来なかった。
 少しでも力を入れると全身が痛くてだるくて、とてもじゃないけど動かすことなんてできない。
「……やっぱ無理みたい」
 そう言うと、ジャハーンが小さく笑った。
「良い。寝ていろ。腹は空かぬか? 何か柔らかいものを持ってこさせるか」
「俺、喉が渇いた」
「わかった。……茶を」
 ジャハーンが少しだけ声を強めて言うと、しばらくしてアマシスが部屋に入ってきた。
「アマシス!」
 アマシスはジャハーンにお茶が入ったカップを手渡すと、俺をじっと見つめた。
 気丈な彼には珍しく、その真っ青な瞳が潤んでいる。
 俺はそれを見ただけで、なんだか胸にグッと来てしまった。
「アマシス……心配かけたな、ごめん」
 アマシスはニコッと笑った。その拍子に、目尻から涙がポロリとこぼれた。
「このお詫びは、元気になったらタップリとしてもらうよ。……王の居ない所でね」
 思わず笑ってしまった。
「わかったよ。タップリかどうかはともかくとして、かならずお詫びはするから……ジャハーンの居ない所で」
「楽しみにしてるよ」
 俺のすぐ横で、ジャハーンが低く唸った。
「そういう相談は、本人に聞こえんようにしろ」
 アマシスはサッと涙を拭うと、いつものツンとした顔を作った。
「これはご無礼を致しました。それではお邪魔虫はこれにて」
 そう言って深々と礼をし、俺に向かって片目を瞑ってみせてから部屋を出て行った。
 俺はアマシスの後姿を見送った後も、なんだか温かいような気持ちで笑っていた。
「潤、茶だ」
 ジャハーンの腕が俺の首の後ろに差し入れられた。そのまま首と肩を支えて少しだけ起こされ、口元にカップを宛がってくれる。俺はありがたく、少し温くしてあるそれを飲んだ。喉がくすぐったくなるくらい甘い茶が、疲れ果てた体に沁みこんで行く。
「……おいしい」
 すっかり飲み干してから、そう呟くと、ジャハーンが嬉しそうに微笑んだ。
「もう一杯欲しいか?」
「ううん、もう平気」
「そうか」
 ジャハーンはゆっくりと俺の頭を枕に戻してくれた。
 まるで壊れやすいものに触れるみたいな態度だ。申し訳なるくらい優しい。
「ジャハーン」
「なんだ?」
「俺……ジャハーンに言わなきゃいけないことが」
 薄闇の中で、ジャハーンの目が俺をじっと見つめ返す。
 俺はとてもその目を見ていられなくて、固く両目を瞑った。
「俺、ユクセルに……っ」
「潤」
 ジャハーンが俺の顔の両脇に手をついて、額と額を擦り合わせた。
「目を開けろ」
 俺は言われた通り、目を開けた。
「忘れろ」
 すぐ側で、金色の目が俺を見つめている。今にも触れそうなくらい近くで、その唇が言葉を語る。
「辛いことは、全て忘れてしまえ。……お前は何も変わってはいない。たとえ何があろうと、お前の私に対する愛に変わりがなければ……それで良い」
「ジャハーン」
「辛かったであろう……だがもう忘れるんだ。私が忘れさせてやる」
 言葉と共に、唇が降りてくる。
 何度も啄ばまれて、俺はうっとりと目を閉じた。
 雨みたいに、優しく何度も、顔中にキスを与えてくれる。
 最後にチュッと音をたてて唇にキスをすると、ジャハーンはまた俺の横に寝転んだ。
「続きは、お前が元気になってからだ」
「え……」
 ジャハーンは肘をついて自分の頭を支え、俺の顔を見た。
「覚悟しておけ。二度とアマシスの相手ができないくらい、愛してやる」
 そう言われて、頬が熱くなった。
「な……何言ってんだよ」
「私の目の前であんな約束をしたからには、それ相応の覚悟が必要だぞ」
「あれは、違うって」
「何が違う」
「だからさ……」
 言いかけて、笑ってしまった。
「馬鹿だな、あんた」
「そうだ、私は馬鹿だ。お前に関することなら、何だって馬鹿になれる」
 ジャハーンも笑っていた。
 俺はその笑顔が愛しくて、たまらなく幸せな気持ちでジャハーンにキスをしたのだった。