ゼキの後について行くと、水辺に小さな舟が泊まっているのが見えた。
「神子、こちらです。ファトマ……神子がお出でになられた。ご挨拶を」
 ゼキが声をかけると、舟の中で横たわっていたらしいファトマが身体を起こし、俺を見上げた。
「あ……守護神、さま」
 守護神? ゼキも言っていたけど、何のことだろう?
 そう思ったけど、ファトマの顔を見たらその問いを口にする気が失せた。
 やせ細った顔に、惨たらしく刻まれた刻印……うつろな眼差しが、うろうろと俺の胸元辺りに視線を投げかけた。
「ファトマ、俺の目を見て」
 俺がそう言うと、ファトマはとんでもないと言って頭を伏せた。
「守護神さまの御顔を拝見するなんて……目がつぶれます」
 なんだよ、それ。
 俺は呆れてしまって、どっかの年寄りみたいなことを言うファトマの肩に手を置いた。
「大丈夫だ。目なんかつぶれないって。だから、ほら、俺の目を見てごらん?」
 ファトマはようやく、恐る恐るというように身体を起こし、俺の目を見上げた。
 その瞳はゼキと同じ灰色だった。
 俺は彼女の瞳を見つめて、なるべく威厳があるように聞こえるように、ゆっくりと話した。
「もうすぐゼキとファトマは、自由になれる。わかるな? ここまで来れた。だからあとはもう大丈夫だ」
「で……でも……」
「俺がついてる。だから大丈夫だ」
 ハッタリもいいところだ。
 俺には何もできない。ゼキの力に頼ることしかできない。
 だけど、ファトマにはこう言ってやるのが一番いいような気がした。なんか俺も場慣れしてきたというか、図太くなってきたよなぁ。
 ファトマはすっかり俺の言葉を信じきって、その何処かミステリアスな灰色の瞳に涙を浮かべている。
「はい……お言葉を、信じます」
 涙のせいか、目の曇りが晴れて澄んだように見える。その目を見て、俺は微笑んだ。
 嬉しかった。
 少しでも希望を持ってくれた、そのことがとても嬉しかった。
「さあ、急がなくてはなりません。兵がいつ後を追ってくるかわからない」
 ゼキに促されて、俺も舟に乗り込んだ。
 ゼキが舟を押し、河に浮かびきったところでひらりと乗り込んで、櫂を使い始める。
 俺は空を見上げた。
 月はもうすっかり低くなり、東の空がほんのりと明るくなって来ていた。
 もうすぐ……夜が、明ける……。

 舟を漕ぎ出してしばらくすると、毛布に包まっていたファトマが小さな悲鳴をあげた。
「……あ!」
「どうしたの? ファトマ」
 ファトマは震える手で後ろを指差した。
「追っ手が……あんなに」
 後ろを振り返り、俺は思わず息を飲んだ。
 薄闇の向こうに、たくさんの光が見えた……舟の舳先につけた灯りだ。それにしても、あんなに多くの追っ手がかかっているなんて!
 ゼキが舌打ちするのが聞こえた。
「こんなに早いとは……予想外でした」
「ゼキ」
「ご案じなさいますな、この腕が千切れるくらい漕いでみせます」
「俺も……俺も、手伝うよ」
 俺は船底にあった櫂を手に取った。
「いいえ、それには及びません」
「どうして! 一人でやるより二人で漕いだ方が早いだろ」
「それはそうですが……しかし、恐れながら神子の腕の力と私の力とでは、吊りあいが取れませぬ。却って遅くもなりかねませんので……」
「あ……そ、そっか」
 くそう、情けないけどその通りだ。
 俺が櫂を持ったまま歯噛みをしていると、横から手が伸びてきて二本の櫂のうちの一本を奪っていった。
「わたしも漕ぎます」
「ファトマ!」
 俺は驚いて彼女の顔を見つめた。
「何言ってんだよ、そんな身体で!」
「わたしと守護神さまの力を合わせれば、兄さんの力に近付くことができます」
「そうだけど!」
「わたし、死ぬ気で漕ぎます……どうせ一度諦めたこの命です、守護神さまの為にも、そして兄さんの、自分の為にも、捨てる覚悟でやります!」
 俺は言い返す言葉を失った。
 彼女のどこにそんな気力が残っていたというのだろう。目の前のファトマからは、驚くほどの力が感じられた。
「……よく言った、ファトマ。神子、それでは神子は私から見て左についてください。ファトマは右だ」
 俺達は頷いて、それぞれ指示された場所に移動した。
「私の腕の動きをよく見ていてください。掛け声をかけます……いち、で櫂の先を水に入れ、に、で思いっきり斜め後ろに向かって漕いでください。若干の力の違いは、私が補います」
「わ、わかった」
「はい、兄さん」
 ゼキは前を向いたままひとつ頷いて見せた。
 俺はゼキの腕の動きを、それこそ瞬きもせず食い入るように見つめた。
 櫂が水に入る、その角度……そして櫂が水に入る深さや、漕ぎあげる時のタイミング。
 俺に、できるか? ……やるしかない!
 それからはもう、無我夢中だった。ゼキとファトマの呼吸に耳を澄ませて、力いっぱい櫂を漕ぎ上げた。身体中が悲鳴をあげていたけど、そんなの聞いてる余裕はない。俺もファトマの言うように、死ぬ気で頑張った。
 しばらく三人で必死に舟を進めていると、ふいにゼキが後ろを振り返った。
「だいぶ引き離したようです」
 俺もそれに倣って後ろを振り返ってみた。
 いつのまにか川幅がかなり広くなっていたが、水の向こうに灯りは見えなかった。
 溜息をつく俺を戒めるように、ゼキが厳しい声を出す。
「ですが、まだ油断はなりません。何しろ国境までにはまだ距離がだいぶありますから……あ! あれは!」
 突然ゼキが大声を出したので、俺とファトマはビクリとしてお互い顔を見合わせた。
「な、何? もしかして、別の追っ手か?」
 ゼキははるか前方を目を細めて見つめていたが、俺がゼキの腰布を引っ張って訊くと、ゆっくりと振り向いた。
「いいえ……あれは、追っ手ではありません」
「じゃあ、何だ?」
「商船を装ってはいますが……間違いありません。私が見たのと同じ船です」
「だから、何なんだよ?」
 不安のあまり泣きそうな声を出すと、ゼキは俺の手をそっと握って微笑んだ。
「あれは……太陽王の船です」

 俺は目を見開いた。
 ジャハーン……ジャハーンだって!?
 身を乗り出して前方を見つめると、確かに船らしき影が見えた。
 あれに、ジャハーンが乗っている……!
「ジャハーン!」
 聞こえる筈もないのに、俺は大声であいつの名前を呼んだ。
「ジャハーン!!!」
 ジャハーン、ジャハーン、ジャハーン!
 きっとまた会えるって信じていた。
 絶対に、あんたの許へ帰れるって……信じてた。