空を見上げると、月が西の空に下りてきていた。
 俺は寒さに凍えながら、葦の茂みの中でじっとゼキを待っていた。
 夜が更けて朝が近付くにつれ、寒さは一層厳しくなって俺を追い詰める。
 ただ待つということが、こんなにも辛いとは思わなかった。
 手足はもう痺れるほど冷たくなっていたし、忘れていた傷の痛みもぶり返してきていた。今の俺を支えているのは、ただ気力と緊張感だけだと思う。こうして気を張っていなければ、一秒だって意識を保っていられないだろう。
 寒さと、空腹と、身体中がきしむような痛みに耐えながら、俺はやっぱりジャハーンのことを考えていた。
 ジャハーン……今何処に居るんだ? あんた。
 俺を追ってきてくれたのは嬉しいけど、本当に嬉しいけど……でももしジャハーンに何かあったらと思うと、気が狂いそうになる。
 俺は左手を顔の前にかざした。
 いつもはまっている金の指輪は、今はない。代わりに薬指に指輪の痕が残っているだけだ。
 俺はその痕に自分の唇を押し当てた。
 ジャハーン……会いたい。
 ふいに目がジワッと熱くなって、俺は慌てて瞬きをした。
 今泣いたりしたら駄目だ。
 泣くのなら、王国に帰ってから……ジャハーンの許に帰ってから思う存分泣けばいい。
 今は絶対に泣いたら駄目だ。
 俺は両手で自分の膝を抱え込んで、身体を揺さぶった。
 その時だった。
 一瞬、何処かで何かが動いたような気配を感じた。
 俺はビクッと身体を震わせ、辺りを見回してみた。
 だけど葦の茂みは俺の背丈くらいの高さがあって、その何かを確認することはできない。
 ……何だろう……気のせいか? ……でも、やっぱり……。
 カサカサッ。
 物音!
 今度ははっきり聞こえた。何かが、居る。
 動物か? それとも……ゼキ? ゼキがファトマを連れて戻って来たのだろうか?
 俺はそうっと腰を浮かせてみた。
 その気配に意識を集中させて、耳を済ませる。
 感じる……誰かが、俺と同じように息を潜めて辺りを窺っている。
「……ゼキ?」
 堪えきれずに、俺はそっとゼキの名を呼んでみた。
 その瞬間、葦の隙間から手が伸びてきて、俺の腕を掴んだ。
「!!!」
 驚愕のあまり悲鳴も出せずに居ると、その手は俺を強引に引き寄せ、俺の身体をがっちりと抱きしめた。
「つかまえた」
 耳元で、聞き覚えのある声が囁いた。
「……ユ、クセル……ッ!」
 なんてことだろう。
 俺を捕えているのは、間違いなくユクセルだった。
 ここまで来て、こいつに捕まってしまうなんて!
「は、はな……放せよ」
「逃がさないよ、ジュン。もうすぐ兵士も追いつく。もう諦めなさい」
「放せよ、放せって!」
「諦めろと言っているんだ。君は僕のものになるのだから」
「い、嫌だっ! 俺は絶対にあんたのものなんかにならないし、あんたの即位に協力したりもしないっ!」
 暴れる俺を、ユクセルはより強い力で抱きしめた。
「……それでもいい。それでもいいんだ」
「はあっ? それでもいいって、だってあんた」
「君を愛しているんだ!」
 俺はユクセルの顔を見上げた。
 ……今、何て言った?
 ユクセルの淡い紫の瞳が、じっと俺を見つめている。
「君を、愛している……だから側に居て欲しい」
 え……。
 一瞬頭の中が真っ白になった。
 なに……何言ってるの? こいつ。だって、だってそんなこと……そんなの急に言われたって……。
 俺がすっかりうろたえて呆けていると、急に俺を拘束する腕の力が抜けた。
 そうかと思うと、目の前でユクセルが呻き声をあげてその場に崩れ落ちた。
「神子! ご無事ですか!?」
「ゼキ!」
 ゼキは俺を抱え上げると、ユクセルから距離を置いた所に降ろした。
「遅くなって申し訳ありませんでした。しかし……どうやら間一髪で間に合ったようですね」
「ゼキ、ファトマは!?」
「既に舟に乗せてあります。あとは神子をお連れするだけです……しかしその前に」
 ゼキは短剣を抜き払うと、ユクセルに向かって構えた。
 ユクセルは上体を低くした体勢のまま、ゼキを憎々しげに睨みあげて自分も腰の短剣に手を掛けた。
「王子、無駄な抵抗はなさらぬことです。いくら貴方が訓練を積んだ身とは言え、私に敵う筈がないということはよくご存知でしょうに」
 ゼキが冷静な声で言った。
「おのれ……刻印つき奴隷の分際で、僕に剣を向けるか!」
「ええ、私は刻印つき奴隷でした。ですがその鎖は自ら解き放ちました。そして今、刻印を消す時がやって来たようです」
 ゼキは短剣を構えたまま、ユクセルに向かって足を踏み出そうとした。
 俺は咄嗟に走り出して、ゼキの前に立ちはだかった。
「神子!?」
「ジュン!」
 二人が驚いて俺の名を呼ぶ。
「ゼキ、殺したら駄目だ!」
「……何故です!? この男のせいで私とファトマは……っ。それに貴方様とて!」
「そうだ。だけど、いくらひどい目に合わされたからと言って、相手を殺していいっていう理由になんかならない。そうだろ?」
「……で、ですが」
「とにかく、駄目だ……堪えてくれ。頼むよ。こいつを殺さないでくれ」
 ゼキはしばらく俺の顔とユクセルの顔を見比べていたが、やがて溜息を吐いて頷いた。
「……わかりました。神子、私は貴方様の命に従います。ですから、こちらに」
 そう言って、ゼキは俺に向かって手を差し伸べた。
 俺がその手を取ると、ゼキはそのまま河に向かって歩き出した。
「ジュン!」
 ユクセルが俺を呼ぶ声に、振り向いた。
 ユクセルはその場に膝を付いたまま、俺を見つめていた。
 その表情は何とも言えなかった。きっと色んな感情が彼の中でも渦巻いているんだろう。
「ユクセル……俺は、あんたのことが嫌いじゃない」
 俺は言った。
「だけど、あんたのしたことは許せないよ。あんたは、間違ってる」
 ユクセルは両目を大きく見開いた。
 唇を戦慄かせて、何度も閉じたり開けたりしては何かを言おうとしている。
 だけどその言葉を聞く前に、俺はユクセルに背を向けた。