「! ……ゼキ!」
 あやうく大声で叫びそうになり、俺は一旦口を押さえてから小声でゼキの名前を呼んだ。
 ゼキの牢屋の鍵を開けて、中に入る。
 ゼキは信じられない、という顔で俺を呆然と見ていた。
「神子……な、何故……」
「抜け出して来たんだよ。たぶんまだバレてない。だけどいつバレて探しに来るかわからないから……ほら、何してるんだよ、急いで!」
「え?」
「逃げるんだよ。グズグズしてたら見つかっちゃうだろ。ほら、早く」
 ゼキはまだよく状況が飲み込めてないみたいだったけど、俺がグイグイ腕を引くと、ハッとしたような顔をして俺を抱きかかえた。そして、俺が通って来た下水路(?)に潜り込んだ。ゼキは横になって器用にその横穴を進んだ。俺を上に乗せたままで……たぶん俺が汚れないように気を使ってるんだと思う。もう一回汚れちゃったから、どうせ平気なのにな。
 出口まで来ると、俺をグッと強く抱きかかえて、壁を蹴り、いとも簡単に地面に着地した。
 やっぱりこいつってスゴイんだなぁ。
 そんなことを思って感心していると、ゼキが俺の両腕を掴んで顔を覗き込んできた。
「一体どういうおつもりですか。もし見つかれば、貴方の命とて危ういのですよ!?」
「それはわかってるけど……でも、今はそんなこと言ってる場合じゃないだろ。早くファトマを助けなきゃ」
「何ですって!? ファトマを? ……神子……貴方という人は」
 ゼキは溜息をつきながら、首を左右に振った。
「信じられません。理解できない……」
「はあ? 何がだよ?」
 首を傾げる俺を、ゼキはしばらく無言のままで見下ろしていた。
 俺はそんな彼がもどかしくて、急かすようにその場で足踏みをした。
「いいから考えるのは後にしろよ! ファトマを助けるのが先だろ」
「……ファトマを……ファトマを助けるのは、無理でしょう」
 ゼキは苦いものでも口に含んだかのような表情をしてそう言った。
「え? どうして?」
「妹を助けようと思ったことは何度もあります。一度かなりうまい計画を練ることができたので、妹に持ちかけてみましたが……ファトマの言い分はただひとつです。‘殺してくれ’……と。妹はもう、生きることに絶望しか抱いていないのです。だから……助けることはできないのです」
「なんで? 刻印があるから? だから絶望したのか?」
「……普通の奴隷と違い、刻印つき奴隷の‘鎖’奴隷……つまり人質という立場の奴隷は……一つ所に閉じ込められ、その生活の全てを縛られます。その生活が長くなればなるほど、生きる希望を失い……自由という夢を持つことをやめ……けれど自ら死を選ぶこともできず、ただ絶望の毎日を送るのです。自ら死を選ぶことは……即ち私の死をも意味するのですから」
「だけど……だけどうまく逃げ出せたら、自由の身じゃんか!」
「ええ、そうです。ですが‘鎖’は、そういった健全な心を失ってしまうものなのです……うまく逃げ出せたら、というように良い結果を考えられなくなってしまうのです。もし駄目だったら……もし失敗したら……そう言う風に考えてしまう。それくらいならば、兄に……私に殺された方が良いと……そういうふうに……」
「どうして? ……自分がいなければ、ゼキは自由になれる……から? だから?」
「ええ……そうです。そう……思っているのです」
 ゼキは顔を歪めた。その目の淵に涙が浮かんでいるのが見えて、俺も泣きたくなった。
 それって、ひどすぎないか?
 自由もない、夢もない、希望もない……死にたいのに、死ねない……だから、大切な人に殺されたい、それだけを願うなんて……そんなのって地獄じゃないか。
 身分制度とか、奴隷制度を廃止するなんてこと俺にはできないし、それが正しいことなのかどうかわからない。この世界の人にはこの世界なりの考え方があって……必要悪もあるんだってことくらい、俺にもわかるから。でもこれはそういうレベルの問題じゃない……だって、夢を見ることもできないなんて……そんなの人間じゃないじゃないか!
「神子……泣かないでください」
 俺よりよっぽど悲しそうな顔で、ゼキが言った。
「神子のお気持ちは、本当に、信じられないくらい……ありがたく思っています。神子というのは、守護神というのは……やはり本当に居たのだと……。貴方様の御身は、私のこの命に替えても太陽王の許へお返し致します。ですが、もし許されるのならば……少しだけ時間をください。その間に私はファトマの許へ行き……その命を絶って参ります」
 俺は目を見開いた。
 ゼキの顔を見つめて……その悲しそうな顔を見つめて、咄嗟にゼキを殴っていた。もちろんグーだ。
『馬鹿野郎!』
 怒りの余り、思わず日本語が出てしまったくらいだ。
「そんなこと絶対に許さないぞ。いいか、俺の為に命なんか賭けるな! それくらいなら、妹の為に賭けてやれよ! ファトマと俺を連れて、あんたはジャハーンの許へ行くんだ。これは命令だからな。俺はあんたを助けた。だから俺の命令は聞かなきゃいけない! いいな……俺とファトマを連れて、ジャハーンの許へ行け。それで、そこで暮らすんだ」
 ゼキは口を開けたまま俺の顔を見つめた。呆けたような顔だった。
「おい、わかったな。返事は!」
「……は、い……」
 ゼキは頷いた。それから、泣きながら何度も頷いた。
「はい。かしこまり、ました……! はい……。はい!」
 その泣き顔が驚くほど幼く見えて、俺はハッとした。
 俺より年上であることは間違いないと思うけど……でもたぶんこの泣き顔が歳相応の表情ってやつなんだろう。何となくそう思ってやるせない気持ちになった。
 俺はちょっと考えて、左手の薬指にはめていた金の指輪を抜いた。
「ゼキ……これ」
 ゼキが右腕で両目を拭って、俺が差し出したその指輪を見つめた。
「これ、貸してやる。お守りだよ……ファトマにも見せてあげて。なんつったって神子の結婚指輪だからな、霊験あらたかだぞ。これがあれば絶対大丈夫だから」
 少しでも気休めになればいい。そう思った。
「……ですが、そのように大切なものを……」
「だから、貸してやるって言ってんじゃん。ちゃんと返せよ。……いいな」
 俺の言いたいことがわかったのだろう。
 ゼキはまだ少し涙に塗れた目で俺をじっと見ると、恭しく一礼をしてその指輪を捧げ持った。
「かしこまりました。必ず、必ずお返し致します!」
「よし!」
 俺は笑顔を作って見せた。
 正直とても笑うような心境ではなかったけど、でもここで暗い顔したって不安になるだけだしな。俺が神子だの何だのってこいつが信じているなら、信じさせてやろう。その方がきっと、今はいい筈だ。
「そうと決まれば、急がなきゃな」
「はい。ですがまずは、神子を安全な所へお連れするのが先決です」
「そんな時間ないだろ。俺はいいよ。何とか自力で脱出するから」
「それは無謀過ぎます。そうですね……それでは神子を河沿いの葦林まで、お連れ致します。そこで私が戻るのをお待ちください。もし日の出までに私が戻らなければ……」
「ゼキ、もしもの話はいいよ。あんたは戻ってくる。そうだろ?」
「……そうですね、その通りです」
 ゼキは深く頷いた。
 その眼差しは真っ直ぐで、もう迷いなんてないように見えた。