気がつくと、そこは寝台の上だった。
 なんだかひどく寒かった。
 手触りの良い毛布が掛けられていたけど、俺の身体はすっかり冷え切っていた。
 身体を起こそうとしたら、やっぱりひどい痛みが走った。
 枕に再び頭を埋めて、俺は天井を見つめた。
 今日起こった出来事は……はっきり言って直視したくない現実だ。夢だったと思い込んでしまいたい。
 でも、それはできない。
 俺一人のことならいい。
 ユクセルに強姦された……そのことはショックだったけど、でも俺は男だ。こうなりゃ犬に噛まれたと思って忘れるしかない。無理かもしれないけど……でも仕方ない。
 だけど、ゼキとファトマのことは、そういうわけには行かない。
 俺のせいだ。
 俺のせいで二人はひどい目に合わされたんだ。
 このまま放っておくことなんか……絶対に、できない!
 俺は「ヨシッ」と気合を入れると、勢いをつけて一気に起き上がった。
 途端に、身体の奥から脳天にかけて、鋭い激痛が走った。
 だけど俺は耐えた。涙が出たけど、でも痛みだけでは人間は死なないから……たぶん。
 ユクセルは、俺を甘く見ている。
 何もできない、か弱い神子だと思ってる。
 確かにそうだ。俺には何の力もないし、痛みには弱いし、血にも弱い。度胸もない。
 だけど、それでも俺だって男だ。今まで16年間、男らしくあろうとして生きてきたんだ。根性だけは負けてたまるか。
 俺はなるべく音を立てずに寝台を降りると、そうっと部屋から廊下を覗いてみた。
 ……ダメだ。離れてはいるけど、見張りがけっこういる。
 それならと思って、庭を見てみた。
 ……人影はない。
 だけど高さがけっこうある。ここから下まで、二メートルくらいはありそうだ。
 どうする?
 一瞬迷った。でも、俺には他に選択肢はない。
 俺は寝台に戻ると、外から見えない部分のシーツを引き裂いた。これは結構力が要った。
 それから枕を縦に並べて、その上に毛布を掛けて皺を寄せた。これなら、パッと見た分には、俺が毛布を被って寝ているみたいに見える筈だ。ちょっと怪しいかもしれないけど……でも夜だしな、暗いし。ないよりはマシだろう。
 重い石のテーブルをヒイヒイ言いながら窓際まで移動させ、その足に捩じったシーツの先を括りつける。それを窓の下に垂らした。これを伝って降りれば、そのまま飛び降りるより少しはマシな筈だ。
 ……見つかったら、今度こそシャレにならない状況になる。だけど、多分今夜を逃せばこんな機会はないだろう。きっとユクセルは、俺が完全に打ちのめされたと思っている筈だ。こんな状態の俺がこういう行動を起こすなんて、夢にも思わないだろう。だからこそ、そこにチャンスがある。
 俺はシーツを両手で握り締めて、震える足に心の中で叱咤を入れた。
 男を見せろ! 俺! ……ムテムイア、見守っててくれよ!
 俺はそこから飛び降りた。
 右の太股が壁に擦れた。シーツがピンと張って、俺は宙吊り状態になる。ここから下まで、あとどれくらの高さがあるんだろう……でもたぶんそんなにはない、ということにしよう。俺は再び気合を入れて、両手を離した。
 そして無様に地面に尻餅をついた。
 それはもう、なんていうか、本当に、痛かった。
 目の前に星が飛ぶって本当にあるんだな。あまりの痛さにまたもや涙が出た。
 やばい……やっぱり痛みだけでも死ぬかも……。
 しばらくその場で蹲っていたが、俺の祈りが聞き届けられたのだろうか。痛みが少し引いて来た。
 よし、これなら行けそうだ。
 正直まだかなり痛かったし、動く度にあちこちが痛かった。だけど気力がそれをカバーしている。だから気力を失わないうちに行動しなきゃいけない。少しでもためらったら終わりだ。
 ゼキとファトマを、助けなければ!
 その思いだけで、俺は夜の闇の中を走ったのだった。

 ゼキが何処に捕えられているか、俺は知らなかった。
 でも囚人や奴隷は北の部屋にいるんだろうなってことはわかる。何故なら北は太陽の光があたらないからだ。例の「刻印」の部屋も北の方角にあった。
 そして俺の部屋は東を向いている筈だ。朝日が真っ直ぐに入り込んでくるのに、日中はそんなに熱くならないし、確かそんなようなことをゼキは言っていた……だとすると。
 俺は空を見上げた。月の位置と照らし合わせて、俺は方角を判断するとまた走り出した。
 急がなくてはいけない。この夜が明けるまでに……太陽が姿を見せる、夜明けがタイムリミットだ。

「……あった」
 いい加減息が切れてきた頃、俺は見覚えのある部屋を見つけた。例の「刻印」の部屋だ。たぶんこの辺りに奴隷達の部屋もあるんだろう。
 キョロキョロと辺りを見回してみる。
 何処からか屋内に侵入できないだろうか?
「あ……あそこ」
 レンガ張りの壁に、正方形の穴が空いている。何とか俺一人くらい通れそうだ。
 手を伸ばしてみたけど、あと数センチって所で届かない。しかもなんかヌルヌルしてて……はっきり言ってかなり臭いし汚い。正直嫌だったけど、もう一度自分に言い聞かせた。俺に選択肢はない! 迷っている暇はない!
 イチニのサンで、その穴の淵に飛びついた。
 手が滑る。
 俺は必死にレンガの溝に爪を立てた。
 手が痛い。痺れてくる。
 一回下に降りちゃおうか……でも結局また同じことするんだし、ここで踏ん張るしかない。
 そう思って、両手に力を居れ、何度も足で壁を蹴って、何とかその穴に潜り込むことができた。
 うう……指が痛い。爪が割れてるかもしれない。ひょっとしたらはがれかけてるかも。変なばい菌入ってないといいけど……。しばらくふうふうと指先に息を吹きかけて痛みを慰め、俺はその汚い横穴を這い進みはじめた。
 これって何の穴なんだろう。下水道とかそんな感じ? とにかくヌルヌルしてるし、臭い水で俺の手や膝はビショビショだった。とにかくあまり深く考えないことにしよう。知らぬが仏って言うしな。
 しばらく進むと、上に出口らしき穴が見えた。
 そこからそっと顔を出し、俺は慌ててまた穴に潜り込んだ。
 あ、危ねー!
 見張り番と思しき兵士の後姿が見えた……見つかってたらやばいところだった。
 どうする?
 俺は穴の中で考えた。
 あいつがどっか行っちゃえばいいけど、多分そうはならないだろう。
 ここを出て、他の侵入路を探すか? ……いや、時間がもったいない。それに、他の所から入っても、そこに見張りが居ないとは限らない。それなら……あいつを何とかするべきた。
 俺は深呼吸をして、記憶を辿った。
 落ち着け。俺は習った筈だ。自分より体格が良く、力が強い奴を倒す方法……相手の隙をつくやり方。
 エマルーが教えてくれた……それを思い出すんだ。
 耳を済ませて、相手の足音を窺った。
 段々と近付いてきて……すぐ側までやって来て……そして、踵を返して、背を向けた……今だ!
 俺は穴から飛び出て、そいつの背後に立った。
 そいつが驚いて振り向いた瞬間、思いっきり眉間目掛けてパンチを喰らわす。よろめいたら間髪居れず、鳩尾に突きを入れ、ダメ押しとばかりに頭にチョップをくれてやった。
 そいつは「うう……」とか「ああ……」とか言いながら、見事に引っくり返った。
 やった! やった! 俺もやればできるじゃん!
 震える手を握り締めてガッツポーズを取った。俺ってもしかしてスゴイかも。
 それに、俺はものすごくラッキーだった。
 そいつが倒れた時に、ジャラジャラって音がしたから腰の辺りをまさぐってみると、なんと鍵の束があった。
 きっとこれは檻の鍵なんだろう。
 俺ってすごいついてる!
 ルンルン気分でその鍵の束を失敬して、そろそろと歩き出した。
 すると、檻の奥の方から覚えのある低い声が聞こえた。
「……神子?」
 やっぱり俺ってすごいついてるかも!
 それはゼキの声だった。