第四章 神子と水の女神 季節は巡り、暦の上では収穫期がやって来た。 シシロ河の氾濫によって出来た豊かな農地に作物が実り、それを皆一斉に収穫して行くのだ。それは同時に市場が最も栄える季節でもあった。 それとは逆にシシロ河の水位は少しずつ下がり始め、また次の氾濫が近付いて来ていることを知らせている。 俺がこの国にやってきてから、一年が経とうとしていた。 俺は、夢を見ていた。 目の前には、大きな川が広がっていた。 俺はその真ん中で、小さな舟に乗り、呆然とそこに座り込んでいる。 ……ああ、この情景は知っている。 この川の上、この舟に、こうして乗ったことがある。 でも夢の中の俺は、それがいつなのか思い出せない。……もどかしい。あれは一体いつだっただろう。それはとても大切なことのような気がするのに、どう頭をひねっても答えが出てこない。 でも思い出さなければ。 俺は知っている筈だ……川の下流から、一体何が来るのか。 ほら、耳を澄ますと微かに聞こえてくる、あの音だ。 あの地響きのような音は何だ? 何か恐ろしいものがやって来る。……いいや、恐ろしいだけじゃない。それは力強く、神々しくさえあるものだ。だからこそ俺は畏れを覚えるんだ。 思い出さなければ。 一体、あれは何なんだ? あれは……そう、あれは……! 「うわあああっ!」 「潤!?」 悲鳴を上げて飛び起きた俺を、二本のたくましい腕がしっかりと抱きとめた。 「どうした? 落ち着け!」 「あ……あ、ジャハーン」 俺は泣きそうになりながら、ジャハーンの胸に縋りついた。 「ジャハーン、ジャハーン、ジャハーン」 「潤、私はここに居る。しっかりいたせ」 「あ……ゆ、夢……」 「そうだ。夢だ。何か恐ろしい夢を見たのだな? だがもう大丈夫だ。ああ、お前……顔が真っ青だぞ」 ジャハーンはその大きな手で、俺の汗で額に張り付いた前髪をかきあげた。 「忌まわしい過去は忘れてしまえ。ほら、私がこうして抱いていてやろう。何も恐ろしいことなどあるまい」 そう言って、俺の額に口付ける。 忌まわしい過去……? 違う、あれは過去のことなんかじゃない。 「……ジャハーン、俺」 「良い。何も言うな」 ジャハーンは俺を強く抱きしめると、あやすように軽く揺すった。 違う。ジャハーンは、俺がユクセルに酷い目に合わされた時の夢でも見たと思っている。 俺はその誤解を解こうとして口を開き、ふいに咳き込んだ。 喉がカラカラで張り付くようだった。 口の中は妙に粘り、苦くて嫌な味がする。 「み、ず……」 「水か? よし、わかった。……ああ、今持ってきたようだ」 顔を上げると、ピピがお茶の入ったコップを持ってきたところだった。 「オリーブ茶です。神子、もしやお加減が……?」 「大事無い。ピピ、下がるが良い」 「は、はい。失礼致します」 ジャハーンに手を振られて、ピピは心配げな面持ちで部屋を出て行った。……どうやら起こしちゃったみたいだ。悪いことしたな。 甘いお茶を飲むと、大分動悸が静まるような気がした。 「今って、まだ夜?」 「ああ。おそらく夜明けが近いだろうが。どうだ、まだ眠れそうか?」 「うん」 「そうか。ならば眠れ。お前が悪しき夢を見ぬよう、私が見守っていてやるゆえ」 促されるまま、ジャハーンの腕を枕にして俺は再び横になった。 腕枕は、首が痛くなるから実はあまり好きじゃないんだけど、でも今はそのぬくもりがありがたかった。 俺は金色の瞳に見守られて、そっと目を閉じた。 ……何だか、言いそびれてしまった。 でも今更起きて言う気にもなれない。第一、偶然かもしれないし。 去年あの夢を見た時は、約一ヶ月ほど続けて同じ夢を見た。今回は、まだ一回だけだ。だからまだ大丈夫かもしれない。 大丈夫……一体、何が? 馬鹿馬鹿しい。 ただの夢じゃないか。 なのに、なんでこんなに不安になるんだろう……。 しばらく目を瞑っていたけれど、何だかグルグルと色んなことを考えてしまって一向に眠くならない。 俺は溜息をついて、そっと目を開けてみた。 ジャハーンの顔を見ようと頭を動かすと、ジャハーンはすやすやと気持ちよさそうに眠っていた。 「……この野郎」 何が見守っていてやる、だよ。調子のいいこと言っておいて、自分が寝てんじゃねーかよ。 ちぇっと舌打ちしてから、俺はまた溜息をついた。 ……まあ、でも仕方ないよな。こいつ、最近朝早くから遅くまで仕事が忙しいみたいだし。俺だって近頃王妃としての仕事が忙しくなって来たんだから、ジャハーンはその比じゃないだろう。 疲れてるんだよな、ジャハーン。 心の中でそう話し掛けて、そっと頭を撫でてみた。 すると、ジャハーンはむにゃむにゃ言いながら、ぎゅっと俺を抱き寄せた。 「……潤」 「え?」 名前を呼ばれたと思ったら、どうやら寝言だったらしい。幸せそうな顔して眠ってやがる。 俺は何だかおかしくてこっそりと笑った。 「一体何の夢見てんだか……」 俺はヌイグルミじゃないんだぞ、と文句を言ってから、温かい胸の中に顔を埋めた。 ジャハーンの温もり。ジャハーンの匂い。ジャハーンの心臓の音。 それを感じるだけで、不思議なくらい安心してしまう自分がいる。 一年前は、こんなこと考えてもみなかった。 こんなムキムキマッチョで、いつも偉そうで、ゴーイングマイウェイな野郎にメロメロに愛されて、それで自分が幸せを覚えてしまうなんて。 でも一度知ってしまったら、もう手放せない。 もう、絶対にこいつと離れたくない。 そう切ないくらい思って、でもすごく幸せで、むしろ幸せで怖いくらいで。 ずっと、この幸せが続けばいい。 そう願いながら、俺はジャハーンの胸の鼓動に誘われるように眠りに落ちたのだった。 |